最近、泣いてますか?
「泣く」とエネルギーがキレイになるらしい。(となりの小さいおじさん 瀬知洋司 著 より)
だから、定期的に「泣ける映画」とか見るのっていいらしい。
私はというと、先日、本を読んで泣いたよ(エネルギー、キレイになったかな)
「催眠ガール2」(大嶋信頼 著)を読んで。
「催眠ガール」の時も泣いたけど(笑)今回も泣いた。まぁ、ほろり、という程度の涙だったけど。
心のトラウマに関する内容は、やっぱりグッとくるものがある。
自分の中の記憶とリンクしているのか、似たような感情が呼び起こされるのか。
でも、読んでいて楽しかったし、あっという間だった。
なんというか、前回の時よりも、今回の方が、想像力が働くというか、集中力が増しているというか。
これはマジで、私の肌感覚やからあてにならないけど、
なんか、本を読みながら、話に出てくる催眠スクリプトを読みながら、私も本の中のキャラ達と同じように催眠にかかって集中力とかがアップしたのではないか?と踏んでいる。
(単純な私ならあり得そう)
まぁ、それは置いといて。
今回、本を読みながら、私は子供の頃を思い出していた。
主人公の夏目ちゃんに感情移入しまくっていた。
だって、重なる部分があるんだものね。
うちの母は、夏目ちゃんのお母さんのように、そこまで私に罵声を浴びせる事はなかったけども。
いつからか母のイメージは、ヒステリックに、感情的に怒るとめっちゃ怖い感じだったけど、途中からはそこに「自信のない母」がプラスされていって、「こんなお母さんでごめんね」って私に言う事が多くなっていった感じ。
昔は鮮明に覚えてたんだけど、最近は、母も落ち着いていることの方が多いから、少しずつ記憶が上書きされていってて、私もあまり思い出すことがなかった。
でも、本を読んでいて、「嫌だった母の部分」を思い出すことがちょくちょくあって。
忘れていたのか、自分で記憶を閉じ込めていたのか。それは自分でもわからない。
別に思い出したからどうってことはないんだけどね。
でも、もし無意識に押し込めてしまっていた記憶だったのなら、「思い出せる」というのは悪くないことなんだろうなって。
別にどうすることもできないんだけど、思い出すことで、「あぁ、嫌やったなー」って見つめる事で、それがちょっと「解放」に近づくんじゃないかな、という気がする。
ヒステリックに怒る母。大きな声で怒鳴る母。たまに布巾が飛んでくる光景。
そして、めっちゃ謝ってくる母。
「こんなお母さんでごめんね」「お母さんが全部悪いんや」「お母さんなんてどうなってもいい」
そんな言葉ばかりを泣きながら言ってくる母。
暗い顔で。どんよりした空気で。重たい雰囲気で。
そうなると、何も言えなくなる。「負」の感情からくる気持ちは喉の奥底にしまい込まれる。
そして、代わりに口から出てくる言葉がある。
「私はお母さんの味方やからね。私がお母さんを守るから」
その言葉も本当に思っていた気持ち。嘘はない。
でも。
負の感情も確かにあった。言えなかっただけで。
今だったらそう言える。
だけど、あの時は言えなかった。
母に対して「負の感情を抱いている自分」が悪い気がして、気持ちをグッと押し込めてた。
まだまだ狭い世界で生きている子供にとって「親」は絶対的な存在である。そんな親に対して「悪い感情」を「感じる」というだけでも「罪悪感」が襲ってくる。
本当はそんな「罪悪感」は幻なのにね。「そう思わされてる」にすぎない、と言うか。
本来、「感情」というものは「自由」だ。
何を思っても「思う時点」では自由なはずなんだ。
なのに、なぜが、「悪い」気がしてくる。なんというか、バチが当たりそうな、天罰が下りそうな、そんな不安に襲われる。
「罪悪感」っていう言葉、誰がつくったんや。
「罪悪感」なんてカテゴリがなければ、それを認識することさえなかったかもしれないやんか。
まぁ、知らんけど。
今、そんな事言っても、しょうがないね。はい。
とにかく、子供の頃の私は、本当は、たくさん言いたいことはあった。
「私だって悲しい!」「私だって泣きたい!」「私だってしんどい!」
「ごめんねって言われたら何も言えなくなる!ずるいよ!」
本当はそう思っていたのに言えなかった。
胸の中が苦しい。喉が絞られる感じがする。だけど、それを言葉にすることはできない。
「誰も私の事をわかってくれない!」
「私は本当の事は言えない!」
「ここに私が安心できる場所はない!」
絶望と言っても過言ではないくらいの、何とも言えない「暗闇」が私を覆っているのに、私は笑っている。心とは裏腹に「しっかりしている自分」を演じている。
泣きながら「ごめんね」と言えば何も言えなくなる、というのをわかって母はやっていたのだろうか。
いや、たぶん、そうじゃないんだろうな。
本当に「こんなお母さんでごめんね」って思ってたんだろう。
でも、深層心理では。たぶん、こう思ってたんだと思う。
「もうこれ以上、お母さんは傷つきたくない!」
「自分のせいで」と表面的には謝りながら、それは、どこかで「反省しているから、これ以上、自分のせいなんだよ、と私に証拠を突き付けないでね」と裏メッセージがある感じ。もちろん、本人には自覚はないよ。
でも、子供ながらに、私はどこかで思っていた。
「本当に私が大事で、ごめんねって思ってるんだったら、謝らんでいい。だから、自分で行動してよ、自信が持てるように、頑張ってよ。私だって頑張ってるんだから」
「ごめんなさい」
この言葉は時に便利な言葉だ。
見せかけの「反省」。自分でも錯覚してしまう。「反省しているな、私は」って。
そして、そこで、終わってしまう。
それ以上、自分に潜ることを止めてしまう。
だって、傷つきたくないから。これ以上。
でも、言い方を変えると、「そんな自分を認めてよ」って思っている自分がいる。
「今の自分」がちょっとあかんなと、自分で思いつつも、「変わりたくない」。
「変わる」のがめんどくさい。
だから、手っ取り早く「反省」をする。
書きながら、「あぁ、自分にも、そんな自分、いるな~」って思った。
いるんだよ、そういう自分が。きっと私だけじゃない。
だから、しょうがない、とも思う。
そうやって、自分で心を避難させることも必要なことはある。
だけど、それを、「今の私」が受け止めるのと、「小さい私」が受け止めるのとでは違うんだよなーとも思う。
こんなふうに、「大人だってしょうがない部分」はあるんだよって思えない。
そんな俯瞰的に見る力がまだ育ってないんだもの。
だから、やっぱり、子供にはできるだけ、そういった経験はさせたくないよなーと思いながら、今まで私は子育てをしてきた。
でも、まぁ、世代間連鎖というのがあるように、連鎖を断ち切るまでに本当に色々と紆余曲折あったけども。(そして、今も続く…汗)
でも、今、それが言いたいんじゃなくて。
そう、いつも言っているように、なんでもグラデーションであって。
どれもが本当で、どれもが複雑に絡み合っていて。
「あの時の私」は確かに感じていた。
「お母さん、ずるいよ」って。
そう、「謝る動機」が「私」に向けられたものではなくて「母自身」に向けられていたのを感じていたんだ。
私を見ているようで、母は自分を見ていた。
自分を守るために、私に謝っていた。
私の事なんて、本当は大事じゃなかったのかもしれない。
分からないけど、でも、私が感じていた「違和感」はそこまでズレていないと思う。
その事実が、子供の私からしたら辛かった。
もちろん、私は今、母を責めるために、追い詰めるために、自己嫌悪を感じてもらうために書いていない。
これは、自分のためだ。
あの時の自分を、取り戻すために。怒っていた自分を認めるために。置いてきぼりだった自分を見つけて、一緒に「自分」に帰るために書いている。
それ以上でもそれ以下でもない。
全部があって自分なんだ。
「確かにそう感じていた自分」をしっかりと確認する。
心の奥で、三角座りをして、うつ向いている小さい私を見つけて、
「そこにいたんだね」って手をつなぐ。
そして、「私」に帰っていく。
ふぅ…。
最近、自分でも気づけてない「心に蓋をして閉じ込めているもの」を出せるように、少しでも何か「引っ掛かった」時は言葉にするようにしている。
これも「守護龍セッション」を受けたおかげかなぁ。
こうやって少しずつ、気づいた時に、気になった時に、やっていけばいいか。
「心は玉ねぎの皮のように何層にも重なっている」
焦らなくていい。
自分で自分を抱きしめる事は、ゆっくりとやっていけばいい。
「終わった」と思っていても、終わってないこともあるから。きっと。
「まだあるのか」と落ち込むこともある。きっと。
それでも、それでいい。
「早く解決」することが大事なのではない。
そう思っている。
みんなそうやって色んなものを抱えて生きている。
それを大切にしたい。
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
この後も素敵な時間をお過ごしください。それではまた!





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