先日、ふと思った事を今から書こうと思います。
「自己肯定感の低さからくる思い込みについて」
今日もどうぞよろしくお願いします。
______________________________________
ある人につらい事が起きて、はたから見ればそれは怒り狂ってもおかしくないようなことなのに、
その人は一応、苦しみながらもそれを自然に受け入れてしまう事がある。
それは何故なんだろう、と思う。
なんで、受け入れてしまうんだろう、って。
私の心の奥のどこかで、違和感として、心がザワザワしている。
仏教的な考えだと「そんなはずではない」と抗ってしまうと「苦」になってしまうから、
「そんなものだ」と受け入れることが大事とは言っている。
「受け入れない」ことが「苦しみをうむ」
この考え方も私は好きだ。
「こんなはずない」と思う事で、本来ならば、受け入れていればもっと前に進む事ができるのに、
と考えることもできることはたくさんあるからだ。
だけど、今回言っているのは、
自己肯定感の低さからくる「諦め」に近いような「受け入れ」が、
良くないこともあるのでは?という事だ。
本来「諦める」というのは「あきらかにする」という意味なはずなのに、
完全に「もういいや」という方の「諦め」になってしまっている。
「受け入れる」というのもまた、とても大事な考え方なんだけど、
今回は、その考えは一旦置いておく。
また違う角度から考えてみたいと思う。
私は、これまでの経験の中で「自分が悪いと思ったほうが傷つかずに済む」という感覚を身につけてしまった。
このように、自己肯定感が低くなってしまった人は「心の前提条件が違う」と思う。
それはどういう事か、と言うと。
自己肯定感が低い人は、「私だからこうなったんだな」という謎の根拠がしみついていて、
出来事に対して自責思考から考えてしまう気がする。
どんな不幸が自分に起きても、
それを「受け入れてしまう」という事が起こる。
「こんな私だからこういう事が起きるんだ」
と疑いもなく、すんなり、受け入れてしまう。
本当は怒ればいいのに、その場から離れればいいのに、
「そういうものだ」と受け入れてしまう。
そういうことってあると思う。
そう、私は母を見ていてそう思う。
何かもう、悲しいことに対する免疫ができすぎて、疑うことがなくなってるというか。
自分に対して、諦めてしまっている。
そして、私の知り合いの人も、「そんな仕打ちを受けて、なぜそこにとどまるの?」と思う人もいる。
その人もやはり、つらく厳しい過去の経験がある。
どちらも、本当に、なぜか「頑張ってやる」といった感じで自分を奮い立たせ、
自分が苦労して解決する他ない感じだ。
そこから距離を置くことも、逃げることもできるのに、そうしない。
それは、根性があって素晴らしい、と見ることもできる。
前向きでポジティブで、本当に見習いたいと思うこともできる。
でも、一瞬でも「苦しみ悲しむ瞬間」をそばで見ている私としては、
なにか、心の奥で考えてしまうところがある。
そう、私だって同じようなところがあるからかもしれない。
「私だからこうなるんだ」みたいな考え。
昔はしょっちゅう、そんなふうにして、自分を納得させて、
そう考える事でしか自分を守れない気がしていた。
変な話な気がするけど、自分のせいって思う事で、
それ以上、傷つくことから守っていた。
でも「自分はこんなんだから、こうなってもしょうがないか」みたいな前提があって、
「なにくそ」と力を振り絞るのと、
自分に諦めている状態ではなくて、物事を受け入れて「なにくそ」と奮闘するのとでは、
心の根っこにある部分が違う。
起きたことは受け入れる。
でも、『私だから仕方ない』まで受け入れなくてもいい。
めっちゃ頑張っているのに、その頑張りさえも自分で「当たり前の物」として軽視する。
自分で自分の頑張りは認めない。
それは、とても、悲しいことだ。
なぜ、そんな風に捉えてしまうのか。
潜在意識になにを抱えているのか。
もちろん、それは、自分でも知らぬ間に抱え込まされていたりする。(生育環境とか、色々な経験によって)
だから、とても、難しい。
「自分に対して疑いをかけること」ができない。
「自分はこんなはずじゃない」と思えない。
そう思う考えの欠片さえもどこにもない。
本当はとても頑張っていて、
本当はとても一生懸命で、
本当はとても優しくて、
それはとても尊いものなのに、それらが自分のなかではとても「軽いもの」になってしまっている。
自分自身につけている「重み」、つまり「価値」を、少しずつ変えていかなければならない。
人から与えられた「重み」は、一時的なものに過ぎない。
自分で「重み」を感じなければいけない。
それが何もしなくても、もともと自分の中にある人はいる。
それはやはり、大きな違いだよなぁ…。
感覚として、潜在意識にしみついてしまったものは、本当にムズカシイ。
多分、頭では「自分を責めなくていい」とわかっていても、体が先に「私が悪い」と反応する。
「感覚」を書き換えるのは、どうすればいいんだろうなぁ。
本当はそんな「きっかけ」になるような「経験」はしたくはなかった。
だけど、そんな事を言ってもしょうがないんだもんね。
そんなやるせなさを、感じる。
母にも、知人にも、自分にも。
それでも、自分でやるしかない。
じゃあ、どうしたら「私は悪くない」という考えを、自分の中に少しずつ持てるようになるんだろう。
そこで、私自身が最近、少しだけその感覚を体験した話をしたいと思う。
自責思考、他責思考のお話。
そして、これは、どちらが「良い」「悪い」という視点でのお話ではない。
私の友人で、基本的に他責思考の人がいる。
本当に、気持ちいいくらいに「私は悪くない。全部相手のせいだよね」と思っている。
そして私は基本、自責思考。
何かがあると、すぐに、疑うことなく「私、何かしたかな?」と自分の行動を振り返ってしまう。
例え、私が悪くなくても、「私の悪かったかもしれない部分」を探そうとしてしまう。
友人と私。
例え同じ出来事が起こっても、それぞれの基本的思考で考える。
「自責思考で考え過ぎるのは良くない」と頭ではわかっていたけど、実際に、友人からの言葉を聞いて、私は少し心が軽くなった気がした。
「そうか、私が悪くないんだよな」
友人の「私は悪くない」というきっぱりとした姿を実際に見たことで、
それが少しだけ自分の中にも入ってきた。
何が「きっかけ」になるかはわからない。
普段は素通りすることでも、タイミングが合えば、自分にピタッとハマる瞬間がある。
他人の存在は、やはり、とてもありがたいものだな、と思う。
基本、疲れていたり、落ち込んでいたりすると、私は誰とも会わずに一人で家にこもりたくなってしまうんだけど。
でも、だからこそ、他人の存在、きっかけ、が自分を救ってくれる瞬間もあるという事を忘れてはいけないよな、と思う。
とにかく、友人の考え方を聞いて、
それが気持ちいいくらいに言い切っていたのを見て、
その発言に嘘がないことがわかって、
それが本当に何故だか、とても心が軽くなった。
物事には必ず裏表があって、
両極があって、
自分とは真反対の人の意見を聞いて、
そして「実際に見た時」の説得力は半端ない。
中途半端じゃなく、その真反対の「極」にいたからこそ、
「そう思っている人もいるんだ、結局、どちらでも自分で選ぶことはできるんだ」
と素直に思えた。
そして、そういう人には、「そういう事」自体が起こらない気がする。
これは、引き寄せ的なふんわりしたものになってしまうけど、
本当に、心から自分に「そんな事が起こることはない」と思っているから、やっぱり起こらない気がするのだ。
…いや、というか、
そういう人は、なにか良くない事が起きても、それを『自分が受けるのは当然のこと』とは解釈していないのかもしれない。
これって本当に、すごく大事なことだよね。
本当は私も、瞬間的に「私は悪くない」と思いたい。
思いたいんだけど、本当に、見えない敵は手強いのだ。
長年の色々で、潜在意識に「それ」が刷り込まれてしまっている場合、
「それ」を上書きするのも自分しかいない。
やっぱり、コツコツ、自分を認めていくしかないんやな。
何度も言うけど、長年の色々でしみついたものはしぶとい。
でも、「今」から始めなきゃ、書き換わることがもっと先になってしまう。
自分を認めていく。
いつもは「軽く見積もって素通り」してしまう色んな事を、一個一個、拾い集めていく。
自分で自分を褒める。ヨシヨシする。
抱きしめる。
コツコツとやっていこう。
私も。
例え、振り出しに戻ってしまう事があっても、
また、そこからコツコツ続けていけばいい。
だいじょうぶ。
大丈夫だ。
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。
この後も素敵な時間をお過ごしください。それでは、また~。





コメント