考えすぎて疲れるあなたへ。「生きづらさ」と10階の景色、そして大丈夫

心をほどく言葉(気づき・違和感・感情の整理・生き方の視点)
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さて。今日も取り留めのない話をしよう。

 

…と、始まる前に前置きを。

今日、話す内容は決して「誰が上で偉い、すごい」とかそんなことは一切言ってません。
どっちかというと、そうでしか考えられない事がしんどい、苦しいと感じたりするよね、というマイナスな角度からのお話です。

それを踏まえた上でお付き合いいただけると幸いです。

 

 

______________________________________

私の頭の中に沢山の思考の泡がシュワシュワっと溢れては消えていく。

あまりにもそれは一瞬すぎて、生まれては消えて、を繰り返す。

 

掴もうとしなければ、消えていき、思い出すことも難しい。

思考が言葉という形になる前に、泡は容赦なく消えていく。

その泡が消えていく様子を、私はただ見つめる。

 

掴むこともあれば、掴むのがめんどくさい時もある。

その間もずっと、泡はシュワシュワ、ぶくぶくと、音を立てて溢れ続ける。

 

 

 

「生きづらさ」

これは最近よく聞く言葉だ。

 

昔はそんな言葉はなかったんだろうか。

 

そもそも、昔っていつのことだ、って感じだよね。

今フッと浮かんだのは、石器時代くらい。槍を持って、マンモスと戦ってるみたいな。

そんな昔を想像してもしょうがないけど、なんか、それが浮かんだ。

 

 

そうそう。

「生きづらさ」と関係して「生きる意味」という言葉もある。

 

「生きること」に必死だった時代は、「生きる意味」なんて考えなくてよかった。

「生きること」だけで精いっぱいだった。

 

今はある種、余裕があるからこそ、「生きること」に「深さ」を求めているのか。

本当は「意味」なんて考えなくてもよいはずなのに、いつから「意味」を求めるようになったんだろうな。

 

もっと単純に生きていいはずなのに。

 

生きづらさを感じる人って、いろんな事が見えすぎてしまうからなのかもしれないな、と思った。

かく言う私もそうだ。

 

見えすぎてしまう。考え過ぎてしまう。

表裏一体が常に頭にある。

 

ただ、単純に「楽しい!」だけでは終わらない。

「楽しい」と同時に「楽しくない」も見えてしまう。

 

だから、これでいいのか?、と迷いがでる。

 

でも、結局、「どっちでもいい」というのもわかっていたりする。

 

これでいい、これじゃだめだ、どっちでもいい、が同時に発生するから、思考力を奪われる。

 

だから、すごく疲れる。

 

これが、なんとなくの「生きづらさ」に繋がったりするんだろうな、と自分では思っている。

 

階層に例えるとわかりやすい。

 

単純に物事を考えられる人は、10階建てのマンションの一階に住んでいる。

でも、一つ一つ、複雑に考えてしまう人は、2階、3階、、、と住む場所が変わってくる。

 

そうなると、見える景色が変わってくる。

1階に住む人と、5階に住む人は見えている景色が違うから、「そもそもの前提」が変わってきて、
1階の人には5階の人のことがうまく理解できない。

 

スモールライトで自分が小さくなって、目の前に大きなケーキがあったとして、
小さい人にはケーキしか見えないけど、大きな人からすると、
ケーキがお皿に乗っていることもわかるし、さらには、そのお皿がテーブルに乗っていることもわかる。

 

見える景色が違うというのは、そんな感じなのかなと思っている。

 

 

そして、見える景色が違うとどうなるのか。

 

たぶん、衝突が起きやすくなる。もしくは、すれ違いが起きるかもしれない。

 

でも、そうなってしまうのは避けたい。

やっぱり、繋がりを感じていたい。

 

では、どうすればいいのか。

1階の人が階段を少しずつ上がっていくか、
5階の人が、毎回、階段で降りてこないといけなくなる。

そしてそれは、お互いがその分、体力を消耗する。

 

10階に住んでたらもっと大変だ。

階段でいちいち降りてこないといけないんだもの。

言葉の引き出しと使い方が上手で、エレベーターを使って降りてこれる人はいいけど、それもまた人による。

言葉のエレベーターを使える人と、使えない人もいたりする。

 

じゃあ、もう、ずっと一階に住めばいいじゃないか、と思ったりもする。

だけど、

一度見た景色はそう簡単に忘れられない。

どうしても、そこに戻ってしまう。

 

「楽しい」を真正面だけで見る事ができたら、、、
ずっと、そうできたら、幸せだとわかっている。

だけど、「楽しい」を立体的に見てしまう。そうなると、「幸せ」以外の物も同時に見える。

 

知ってしまうと、知る前には戻れない。

 

そして、知ることを望んでいる自分もいたりする。

 

これは、どっちがいい、どっちが幸せ、というものではない。

ただ、そういうことなんだよな、と思うだけだ。

 

上の階に行けば行くほど、住む人は少ない。

だから、ふと孤独を感じる瞬間も増えるのかもしれない。

 

階が高いほど偉いという話ではない。
そんな事を言いたいのではない。

ただ、「見える景色が違う」という事だけだ。

 

 

だけど。

これは「悲観的な事ではない」、と思いたい。

 

もっと、もっと上を見てみる。

 

10階からの景色よりも、もっと上に視点を広げる。

マンションの上には空があって、もっともっと上に上がっていくと、地球がある。

そして、宇宙がある。

 

宇宙から見ると、地球は「点」に過ぎない。

孤独もまた、自分が作り出した感情なんだな、と思えたりしてくる。

 

なんか、物凄く当たり前のところに、終着しそうだけど行きますよ。(笑)

 

物事を超絶、俯瞰的にみると、心が軽くなる。

 

ピントを細部に合わせて、「それ」を拡大しすぎると、苦しくなることもある。

 

どっちも行き来できる自由さが、大切だな。

 

何が言いたいんだろ(笑)私は。

 

  

感傷的になりたい?

カッコつけたい?

希望を持ちたい?

案外、捨てたもんじゃないな、って思いたい?

 

この間も、シュワシュワ、ぶくぶく、頭の中の泡は溢れている。

 

何をしていても、「両方」が浮かび上がる。

それでいい。

 

だから、刹那的に動ける瞬間があるなら、それでいい。

だって、どっちも「ある」んだから。

結局、「どっちでもいい」。

 

どう思う瞬間があっても、全部、それは「自分」だから。

どれもが本当で、どれもが「ある」。

 

その「瞬間」に偏りが生じ、その偏りの瞬間が積み重なっていく。
そして、気が付くと、いつの間にかそれが「自分らしさ」になっているんだろう。

 

だけど、私は「偏りが生じる前の揺れ」さえも切り取って、感知したい。

どんな泡さえも、「あった」と認識したい。

例えそれがどれだけ「生きづらさ」に繋がったとしても。

そう思う。

 

 

やっぱり、結局、「どっちでもいい」

 

いや、そんな言い方じゃないな。

うーん。

 

あ、そうだ。そうそう。

「結局、どっちでも、だいじょうぶ」

 

そう、だいじょうぶ。

 

大丈夫なんだよ。

 

 

可能性の海に逃げていると言えばそうなるけど、
可能性の海にぷかぷか浮いているのを楽しんでいる、と思うこともできる。

 

どんな「瞬間」も一つ残らず真剣に生きている、と思うこともできる。

 

 

どっちでも、だいじょうぶだ。

 

 

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

この後も素敵な時間をお過ごしください。

 

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