「もういいや」と父親を許せた日。葛藤を手放し前へ進む心の変化

がんばりすぎた日々の話 (過去の体験 ・親・家族・夫婦 ・子育ての中の自分)
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父の日が終わった。

今年の父の日は、子供たちと一緒に画用紙に「寄せ書き風お手紙」を書いて、プレゼントと一緒に渡した。

夫はとても喜んでいた。

 

そんな光景を見て、私はシンプルに嬉しかった。

 

「父の日」

 

誰が考えたんだろうね。本当に。

 

嬉しそうな夫。笑顔で夫に抱き着く子供たち。

そんな光景。

 

私が幼少期のころからずっと今まで、そんな光景を実父との間で経験したことはない。

 

それは、ブログに散々書いてきたけど、まぁ、色々あったものですから…(笑)

 

だから、私は「経験できなかった事」が今、経験できて本当に嬉しい。

そして、今年。

私は生まれて初めての行動に出た。

 

「父の日」に、父に対して「お父さん、いつもありがとう」のメールを送ったのだ!!!!

 

「何を大げさなw」

と思うよね。(笑)

 

「出来事」に対して「意味」を与えるのは私たち。

私は「父の日にメールを送った」という「出来事」を今「大事(オオゴト)に意味づけ」してますね(笑)

 

私のなかでは、これは、大きな一歩なのである。

 

今から、私のぐちゃぐちゃ、ドロドロした闇の感情をさらけ出すよ。(心の準備はいいですか?←大袈裟)

 

私は、家族に苦労をかけて、散々私たちを裏切ってきた父を「許したくなかった」

 

今は、大病をして、性格も一変して、嘘もつかなくなって、ギャンブルやお酒や借金とは無縁になった父だけど。

昔はひどかった。

 

私は昔から「お父さんの事は尊敬できない。お父さんは信じれない」と思っていたし、それが口癖みたいな感じだった。

自分でも「そう強く思っていた自分」を覚えている。

 

私を裏切った父を許せない。憎んでいる気持ち。

でも、本当の事を言ってほしい、許したいと思う気持ち。

 

色んな気持ちがあった。

 

病気後、あまりにも変わりすぎて、過去を責めることさえもできなかった。

だって、「いい人」になった人を責める事に罪悪感を感じるもの。
そんなことをいつまでも思っていて、完全に赦せない自分に対しての罪悪感みたいなものもあった。

ただ、自分の中で「許す」という事と、怒りや許せない感情との葛藤が苦しかった。

 

でも、ブログでも、少しずつ私の心が変わってきていることを書いているけど、(繰り返していることも含めて)
私も、その都度、自分と向き合って、感情を手放すようにしてきている。

そして、「許せる自分」の方が優勢になっていた。

 

それでも、たまに、「あぁまだ、許したくない自分がいるんだな」と思ってたんだけど。

 

でも、今回、父の日を迎えるにあたって、なんか本当に、
「もういいや」って思えそうだなって、思った瞬間があって。

 

言葉では言い表しにくいんだけど、

今までは、「もう許せたよ」と思っている自分の中に、「父を赦さなきゃ」とどこかでまだ思っている自分がいて、

でもそれは、「赦さなきゃ」と思っている時点で、まだ、「それ」に囚われてるんだなって客観的に自分を見れた瞬間があったというか。

 

本当に「それ」が「そうなった」のなら、

私の中から「それ」は「消えてしまっている」わけで。

だから「そうなった」のなら、

もう「それ」を「考えること自体しなくなっている」わけで。

 

抽象的ですいません。

でも、この「感じ」、わかるかなぁ。

 

「赦さなきゃ」はまだ「赦せてない」から思う思考であって。

 

「赦せていたら」もう、そんなことはどうでも良くなってて、考えることすらしないんだよね。

もし、そんな状態に本当に私がなれていたら、きっと、父の日のメールも、もっと前から、何も抵抗なく、何も考えることなく、父に送られていたと思う。

 

 

昔は「あーいう風になりたい」「もっとこうしたい」「もっともっと」という感情ばっかりだったけど、

今は、最終的に自分の中にあるのは、

「あぁ、感謝だな」っていう気持ちがベースにあるだけで、基本的には「もっともっと」みたいな感情はあまりわいてこない。

 

まぁ、もちろん、日々、いろんな感情になったり、揺さぶられたりはするんだけどね。

でも、「ありがたい」というところが自分の心の中心点になってるって感じかなぁ。

 

それでも、「感謝の中心点」にいつつも、父に対して「赦さなきゃ」という感情があって、「葛藤」があったんだけど。

 

でも、

父の日をきっかけにして、「もういいや」って思えた。

 

それは「赦すことができた」という崇高なものではなくて、

なんというか、もっと、単純なものだけどね(笑)

 

「可哀想な自分」とか、

「苦労してきた自分」とか、

「頑張ってた自分」と、いよいよバイバイできそうかも、みたいなそんな感じ。

 

あとは、これも思ったよ。

 

私が「お父さんありがとう!」と父にメールを送ることで、
父は「娘からそんなメールをもらえた!お俺はちゃんと父親をすることができてる!」と喜ぶかもしれない。

今まで経験することのなかった「父親という実感」を得て幸せを感じるかもしれない。

「私は苦労したのに、幸せにさせてたまるもんか!」というドロドロした気持ちがあった事を認めつつ、
そんな自分を客観的に見て、そんなことに囚われてる自分が「もういいや」って思えて、

「どうぞどうぞ!幸せを感じてくださいな!」と父に思えたのだ。

 

 

「あなたが私に経験させたように、同じように苦しんで孤独を感じて悲しんでくれ」という気持ちは確かにあったんだと思うけど、私の中に。

でも、なんか、本当に「もういいや」って思えた。

 

もっと深ぼると、下心もあるのかもしれないな(笑)

だって、以前本で、誰かに怒られたときに、本当は自分が悪くないのに、でも、そこで、ムカつく気持ち、理不尽な気持ちを抑えて、そこでおりゃ~!って感じで「ごめんなさい!」と先手を打てた方が魂のレベルは上がるって書いてあったから(笑)

 

それも影響してる、、、のかもしれない。(知らんけど)

まぁ、どれもが本当に「私が思っている感情」なのです。

一個の気持ちがあるのではなくて、色んな気持ちが一緒に共存している。

 

 

天気で例えるとわかりやすい。

雲ひとつない晴天の日もあれば、

嵐の日だってある。

さっきまで晴天だったのに、

ぽつりぽつりと雲が出没して、あっという間にお日様が雲に覆われてしまうこともある。

薄い雲、濃い雲。

濃淡。グラデーション。

一瞬で消えてしまう気持ちもあれば、

ずっと残っている気持ちもある。

そして、一瞬の気持ちだって、濃いものあれば薄いものもあって。

でも、全部「ある」気持ちだから、嘘ではない。

 

全部の天気の状態が自分の気持ち。

一瞬で消えてしまっても、確かに、そこに気持ちはある。

 

でも、いろんな気持ちになりながら、マザーテレサのような慈悲の心に憧れを持ちつつも、実際は、「お前も同じように苦しめ~」みたいな鬼のような存在も自分の中にいるわけで、

それでもそんな自分でいいやとも思えていて、

それを続けてたら「もういいや」につながったというか。

 

まだわからないけど、メールを送ったことは「事実」で、
今までになかった新しい行動というのも「事実」だ。

 

父が幸せを感じることへの抵抗を手放すと、少しだけ、心が軽くなった気がした。

ついでに、たまに来る父からのメールへの抵抗も、減った気がする。

 

もしまた、父とのやりとりで、私の心にゲリラ豪雨が起これば、それもまた、その時、手放そうと思っている。

それでいいや~って。

 

今こうして、一つ一つを「言葉」にしちゃうと、なんかこう、すごくそこに「力」を与えてしまうことになるんだけど、
でも、本当に、ただ、一瞬だけの感情さえも拾って言葉にしていることもあるから、
そこまで、ガチガチではなくて、ゆるいものも含まれてますよ。
(だから、謎の言い訳すると、父を心底憎みまくっていたというわけでもないので。すべてはグラデーション)

あぁ!めっちゃ抽象的ですいません。

それでも、なんか「書こう!」とおもったから書きました。

 

可哀想な自分。

苦労してきた自分。

頑張ってきた自分。

それらを大事に抱えることによって、得ていたメリット。

 

それらも「必要だった」時期も確実にあるので、すべてが大事な私の一部です。

(ずるい自分も臆病な自分も、なんか全部いろいろ)

 

 

また、来年もサラッと父の日メール送ろう。

  

そして、こんな事を書いておきながら、また、同じ場所に戻って思考がグルグルするかもしれないけど、そん時は温かい気持ちで読んでやってください(笑)(いつも感謝です)

という事で、今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!

この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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