「暇」と「退屈」と「思考停止」と「不安と恐怖」。そんなひとりごと

心豊かに生きる
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今日のタイトル。

自分で声に出してみて思わずツッコんだ。「誰が読むねん」って。なんか面白くなさそうなタイトルですが、想像通り面白くないと思いますw

でもなんか、思うことをつらつらと話したい。いや、話させてください。(お願いします)

それでも読んでくださるそこのあなた。本当に大好きです。(マジ感謝してます)

 

先日こんな本を読んだ。

「暇と退屈の倫理学」

もうタイトルが面白そすぎません?w「暇と退屈」て。めちゃくちゃ興味津々。

そして理解力の乏しい私でも、読み終わってそれなりに学びがあった。読み手によっていろんな解釈があると思うし、それぞれの解釈があるのが面白いなと思う。

 

本って読む人によって響くところも違うし、読む人のその時の状態によっても違うし本当に面白い。読む事でいろんな感情が刺激され、また新たな考えが自分の中に生まれたりする。知識を吸収して新しい自分に生まれ変わる。それまでの自分にはもどれない。知ってしまうとその「知識」ありきで物事を見るようになる。

本ってすごいな。

 

今回の本の内容は詳しくは書きませんが(そうなんかい)、ビビッときた方は一読してみると発見があるかもです~

 

本を読んで少なからず影響を受けた私のひとりごと。(そこから派生していく着想)

 

「暇と退屈」って言葉で聞くとなんかマイナスなイメージがする。

「暇」と聞いただけであかん気がするのは私の偏った価値観のせいだろう。なんか忙しい方がかっこいいとか、時間があれば何か生産活動をしてたい、みたいな気持ちがどこかにある。

特に以前の私はそうだった。

 

でも、「暇」や「退屈」にこそ大切なものが隠れていると思うようになってからはそんな時間を意識的に作りたいなと思っている。

 

そう思っているのに、そんな時間ができるとふと「不安」になってしまう自分もいる。どっちやねん、私。

でも、どっちの私も今の時点では存在しているからしょうがない。

 

なぜ「不安」になるのか。

なぜ「暇」だといけないのか。 

 

そこには「何かを生み出さねばならない」という思い込みが隠れているんだろう。「何か」とは「お金」だったり「もの」だったりする。でも有形のものだけではない。「人から喜ばれること」などの無形のものもある。

 

なぜ、そう思うのか。

きっとそうしなければ「価値がない」という思い込みがまた隠れているからだ。

 

思い込みは怖い。

頭では「そんなことない」と言っているはずなのに、それで納得しているはずなのに、生きている間にいろんなところで刷り込まれていった「価値観」がどこかで反発しているのだ。

 

だから、ふとした時に「不安」や「恐怖」が自分を襲ってくる。

 

なにかを生み出す事は素晴らしいことだ。

でも、常に「生み出すこと」をしなければいけないのか?

 

そのまま「存在」しているだけでもいいはずだ。そう、ただ「在る」だけでいいはずなのに。

 

「暇」になるとそういった感情ととことん向き合う事になる。

「私はなんだ?何のためにここにいる?」

 

でも。

この時間こそが大事なんだなと思うようになった。

そして、そもそも「意味」がなくても私たちは「存在」していい。

 

ここで暇の反対の「忙しい」をいろんな角度で考えてみる。

忙しいというのは暇がないという事だ。暇がないとさっきいった「自分と向き合う」こともしなくてよくなる。「考える」ことはエネルギーを使う。しかも、答えのないような問題を考える時は特に疲れる。脳はもともとめんどくさがり屋だ。できれば考えなくてもいい状態を好む。

そう、思考停止状態とはとても楽なのだ。

  

自分でしたいことをして忙しいのと、したくない事をして忙しいのとではちょっと違う。

 

私はちょっと前から「暇」な時間をとても大切にしている。それは、自分と向き合うことであり、不安や恐怖と向き合うことだからだ。その時間ははっきり言ってあまり楽しくなかったりする。なんならちょっとしんどい。でも、生きていく上でとても大切なことだから逃げないようにした。

 

だって逃げてもまたやってくるから。

 

私たちの周りには、ほかにも思考停止になるようなものや仕組みがたくさんある。娯楽や快楽、そこに浸るとあっという間に時間は過ぎる。世の中は本当に巧みにできている。気づかぬうちに催眠状態になっていたりする。誰が考えたんや、ほんま。毎日暇なんてないくらいだ。

でも、楽しい時間と同時に失うものは生きていく上での大切な問いだ。

 

もちろん、そんな問いを自分にかけなくたって生きてはいける。

 

そういう生き方だって全然オッケーだ。

 

ただ、私はなんかとてもモヤモヤするから向き合うようにした。この定期的にやってくるモヤモヤにいい加減おさらばしたい。だからしょうがない。向き合うしかないっしょって感じだ。

 

「暇と退屈の倫理学」を読んで、盲目になるくらい夢中になることはある種の思考停止だという新しい視点を手に入れた。今までは、何をするにも「夢中になりたい」という自分がいたけどそれは「現実逃避からの思い」ではないのか?という新たな問いができたことは良かった。

 

答えはシンプルなんだけど、複雑だ。

その時々で変わることもある。 

 

でも、問い続けながら生きていくことが私にとっての「今の時点」での正解らしい。

 

 

問い続けながら、その都度答えを出す。できるだけその瞬間は自分が「納得」している状態でいたい。その繰り返しだ。 

 

今の時点ではそれが一番納得する答え。

「暇と退屈の倫理学」

私にたくさんの刺激をありがとうございました。

 

本ってほんま最高や~

 

今日も最後までお読みくださり本当にありがとうございました!

この後も素敵な時間をお過ごしください!ではまた~

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