「すべての行動には本人にとってなにかしらのメリットがある」
これはアドラー心理学で学んだことだ。(目的論)
どんな行動でもそう。
例えそれがネガティブな行動だとしても。
子供が朝、腹痛を訴えてきて学校を休んだとしても、腹痛が原因ではなく「学校を休みたい」という目的が「腹痛」を起こした(かもしれない)という考えかた。
まだほかにも考えられる。
「休む事で親の目を引きたい」とか「学校で特別な存在として見られたい」とか。
どんな目的を持っているのかを考えると、また違う世界がみえてくる。そして相手への対応も変ってくる。
私も「自分はあかんやつやなー」と落ち込むことがあるけど、自己否定もメリットがあるからやってると思う事もできる。
まぁその瞬間は無意識やけども。
自己否定することで「失敗する自分を守る」とか「自分に保険かける」みたいなことも考える事はできる。これの何がまずいのか考えてみよう。
これの場合、「自分はあかんやつ」→「何かに失敗する」→「自分はあかんやつやからというのを言い訳にして改善を怠る」という流れになるのがまずいのかもな。
「じゃあどうする?」「じゃあどうしたい?」
と、改善の行動を起こすことができるならいいんだけど、「できない自分」を理由にして自分が改善できる部分を見て見ぬふりしたり、気づこうとしないのは避けたいな。
「目的論」が全部に当てはまるわけではないと思うけど、なんでも使いかた次第だ。
「目的はなに?」と問うてみる事で本質的な部分に気づけるかもしれないな。

メリットなきところに「行動」はない。
子供に怒る時、子供の行動が悪いから怒っているのではないのかもしれないと考えてみよう。
子供の行動を正したい場合、「怒る」事をしなくても他の手段で行動を正すことができる。
でも「怒る」ということは「怒る」行動にメリットがあるからだ。
「怒る」ことでスッキリするかもしれない。子供が恐れる事でいう事を聞きやすくなるかもしれない。「怒る」ことで親の威厳を保っているのかもしれない。
いろんな目的、メリットの可能性が見えてくる。
でも、厄介なのは「この目的があるため」という自覚が本人にはないということだ。
本人は悪気もなく、当たり前のよにうに、正義感をもってやっている場合もあるから。ただ「子どもの事を思って行動を正そうとしてる」と思いこんでいる。

そう思うと、反省するところが見えてくるな(汗)
まぁでも、なんでも、盲信はよくない。これが万能!絶対!というのはない。
盲信して、なんでも「目的論」に当てはめようとしてしまうのは危険だ。
子供に怒っている親みんながそうだとは限らない。
あくまで「可能性」があるという事を忘れずに、一点に思考を集中させずに広い視点で物事を考えたいと思う。
気を付けよう。
でも、自分に対して当てはめて考えるのは自己理解につながるので私はいいなと思いマス。
ここからは余談。(よかったらお付き合いくださいませ~)
先日、夫が「サングラス」を買うか買わまいか迷っていた。
夫「どうしようかな~。でも、これいるかな?」
私「いるか、いらんかで問うてしまうと、私やったらいらんってなるよ?だって他のももってるし。もともと持っているもので日差しから目を守りたいという目的は達成できてるから」
私「どんな目的があるのか?をまず考えてみるのがいいんじゃない?気分転換でほしいのか、そのサングラスをゲットすることで得られるメリットは何なのか?」
私「(サングラスが特徴のあるものだったので)そのサングラスを付けることで周りとの差別化を図りたい、目立ちたい、マイノリティになりたいというのが目的なんやったら、もうまさにそれは買うべきものじゃない?(笑)」
でました。目的!(笑)
私「でも、目立ちたいだけが目的やったら、そもそもサングラスじゃなくても目的は達成できるのかもしれないね」
(………ってか、私、超絶めんどくさいやつやな。冷静に文章でみると、かなり曲者やw)
夫「たしかにそうやな。いるかいらんかで考えたらいらんもんな。だってあるし。でも考えてみたら、服を毎日変えるような感覚でサングラスも変えたいって気持ちがあるんかもしれん」
そんな会話のラリーをしたあと、夫は納得したうえでサングラスを購入していた。
なぜそれが欲しいのか?
「欲しい」の先にある「感情」を見てみるとおもしろい発見があるかもです。
最後に真逆のこと言いますが(笑)、理由がなくたっていい場合もめちゃありますよ!
「なんとなく」の感覚。
「思考」する前にくる感覚。
これ、めちゃクチャ大事です。
何事も盲信するべからず。
どの角度からみるかだけのこと。
はい。気をつけます。
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~



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