「意味のあることさなきゃ!」
ちょっとでも時間があるとそう考えてしまう。
「これに意味はあるのか?」
そんなことをついつい考えてしまう。
ってか、「意味」ってなんなんだ。
私の頭にへばりついてる。「意味」という言葉。
そんなに「意味」が大切なのか。
「意味」を追いかけて得たものは本当に満足できたか?
私は何がほしい?
私はどうしたい?
「そこに意味はあるのか?」
(なんかCMみたいやな)
時間があると「自分の中で意味のあること」をしなきゃと思ってしまう。 つまり、無駄な時間を過ごしたくないという事だ。

すこしでも効率的に。もったいないことはしたくない。そんな感じ。
だって、よく言われてるもんね。時間はみんな平等でどう時間をつかうかによって人生は大きく変わる、みたいなこと。自己啓発とかの本読んでると、そんな事は沢山書いてる。
だから、ちょっとでも「意味のある時間」を過ごさなきゃと思うようになっていったんだろうな。
「意味のあること」って思うには自分的な手ごたえがないとだめだ。
手ごたえはどんな時に感じるだろうか。
何かをしたとき。目に見えて結果がわかるとき。例えば、本を一冊読んだとか、何かを作り上げたとか。こういう事は目に見えるからわかりやすい。「やったなー」って実感できる。
実感できたら、安心できる。「あぁ、無駄な時間にならなくてよかった」って。
効率的に過ごすことは悪くない。むしろ自己成長という点ではいいことだ。でも、やっぱりなんでも、偏りすぎは良くない。なんでも「それが全て」ではない。
思考が偏りすぎると、今度は「そうじゃないとダメ」が生まれる。そうなると「そうじゃないとき」は「ダメなとき」になる。すると、そのたびに罪悪感みたいな気持ちが出てくる。
これって資質みたいなものも混じってるから、一旦自分がどういうタイプかを分かっておく事って大事だ。
個性心理学(動物占い)で占うと私は「効率的なものを求めるタイプ」らしい。何種類かの動物がこのタイプに当てはまる。無駄なことを嫌うのだ。
資質的にそういうものを持っている人は特に思考がそちらに偏りやすい。
気づかないうちに自分で勝手に罪悪感を感じていないだろうか。
占いを鵜呑みにしろというわけではないけど、参考にはなる。自分が「そうなりがち」というのを分かっておくだけでもずいぶん変わってくる。
こういうタイプは「休むこと」が苦手なんだ。(多分だけどね)
以前ブログでも書いたけど「余白」「ゆとり」「余裕」ってすごく大事だ。つまり「休むこと」が上手にできないとこういった「空白」は生まれない。
「空白」にものすごく価値がある。でもそれは、一見、見た目では分からないから、効率を好む人にとっては物足りなかったりする。
ちょっとスピリチュアルなことを言うけど、頭の中がずーっと自分の思考でいっぱいだったら、アカシックレコード的な、大いなるもの的な、そんなところからのメッセージを受け取ることができない。だって頭の中がパンパンだから。そんな隙間なんてない。
自分の頭の中を空っぽにして、隙間を作って、ゆとりがあって、だからこそメッセージをしっかりと受け取ることができたりする。
思考を司っているのは左脳だ。
左脳は「物語作家」だ。物語を作るのが上手。辻褄を合わせるのも上手。都合のいいように解釈することも上手。
この世はただそこに「事象」があって、それを脳が勝手に解釈して私たちに見せてくれているだけなんだ。私たちは自分で物を見ているようでも、目に入ってきた刺激を電気信号に変えて脳に送り、その電気信号を元に脳が映し出したものを見ている。
だから、めちゃくちゃざっくり言うと、私が見ている景色とあなたが見ている景色は全く一緒ではないということだ。
それぐらい曖昧なもの。
何が言いたいのかと言うと、必死に色々考えていることも、そんな曖昧なものかもしれない、そこまでそれに縛られなくてもいいのかもしれない、という視点を持つ事も一つなんだという事だ。
まあでも、自分がそう思っていたら、その考えていることに執着してしまうことは自然なことかもしれないけど。
効率的なことにとらわれていると、本当に大事なものが見えなくなってしまうことだってあるということは片隅に置いておこう。
ちょっと話が逸れるかもだけど、
私も時間がある時に「せっかくの時間があるんだから無駄なく過ごそう!」と思って、自分なりに考えた「意味のあること」をたくさんしようとするんだけど。
そして実際、時間がある限り無駄なく過ごすこともあるんだけど。
でもなぜか心が満たされない時がある。
効率的に時間を使って、目に見えること、達成感みたいなものを味わっても、なんだか心がスッキリしない。満足していない。
それは何でだろう?って考えた時に思ったことは「手段ばかりに目が行っていて、本質的な満足からはずれているからだ」と思った。
無駄なく過ごすこと。何かをやること。達成すること。
ここが大事だと思ってやってるんだけど、本当の私はそこを求めていないらしい。違和感を感じるって多分そういうことだ。

何のためにそれをするのか?
意味のある時間を過ごすためにそれをする。
意味のあることってなんだ?
なにか資格を手に入れるため?お金を得るため?成長するため?それらにつながることをすることが意味のあることなのか?
お金を得て何がしたい?資格を得てどうなりたい?その先になにがある?
その先の本当に得たいものはなんだ?
それはきっと人によって違うんだろうけど。
私もいろいろ考えてみたよ。その先の本当に得たいもの。
私が本質的に得たいもの。感情。気持ち。なんとなくのその「感じ」
それは「安心」だ。
ホッとしたい。
なんともシンプルな答えだ。でも、今はそう思う。この先またかわるかもしれないし、変わらないかもしれないけど。今はそう思う。
ホッとしたいのだ。そのために色んな手段があるだけだ。
ホッとしたい気持ちを満足させ続けたら、得たいものは変わるのだろうか。どうなんだろうね。
ホッとするために、資格を得たり、お金を得たりするために、限られた時間を無駄なく過ごすということは確かに大事なことだな。だけど「無駄なく過ごさなきゃ!」ということが目的になってしまってはいけないんだなー。
「無駄なく過ごすこと」が目的になってしまうと、本質的なものを見失ってしまう。
まあ何でも「いい塩梅」が大事なんだけど。
ホッとすることが本質的な目的なのであれば、その時間を使って「ぼーーーっと」してもいいはずだ。ぼーっとすることがホッとすることに繋がらないのであれば、他のことでもいい。なにか、あるはずだ。
ホッとできる何かが。
無駄なく過ごすことも大事。だけど、そうじゃない時間も大事だ。
そして、これは、ひとそれぞれ、何が無駄で何が無駄じゃないかってのが違うから、やっぱり自分で考えるしかない。
というか、無駄なことなんて一つもないんだけどね。ほんまに。
無駄なことって自分が勝手に「無駄だと思っている」ことであって、本当に無駄な事ではない。
執着するのがよくないだけだな。うん。気を付けよう。
でも、執着するくらい、自分を追いこんで、そういう時間を過ごすことも時には必要な事もある。
どっちやねーーーーーんって言われそう(笑)
でも、そういう時もあるんだ。
「ミステリと言う勿れ」という好きな漫画のなかで出てくる場面で、
「病と戦って負けましたとかいうと、根性論てきな感じがして、違う気がする。病と戦うのは本人ではなくお医者さんとかだと思う」みたいな事を言っていたんだけど、
それを見たときに「確かに」と思う自分もいて、
「病に負けたら本人の力が足りなかった」的なニュアンスを感じるし、本人自体はすごく頑張っているんだから追い打ちをかけて「負けた」という表現ってなんかつらいなと思ってたんだけど、
そこに出てきていた病人のおじいさんが「だけどそう思うことも大事なときがある」みたいな事を言っていて。
それも「確かに!」と思ったのだ。
「戦う!」と思って自分を奮い立たせること。そうでも思わなきゃ気が滅入ってしまう。気持ちは体に影響するから、自分の状態をよくするためにあえて「病と戦っているんだ!」と思うことも必要なときってあるよね、と思った。
なんか、今回のブログと少しだけ通ずるものがあるかなと思って例えで出したけど…(笑)的外れやったらごめんなさい。
執着することも「時として」大事なときもあるんだな。きっと。
自分が死ぬか死なへんか、瀬戸際のときに、最後何がその可能性を傾かせるかと言ったら、やっぱり「オモイ」だと思う。だから、「生に対する執着」も大事なんやな。
どちらも大切。自分にとっての「良い塩梅」を見つけていこう。
こういうどっちつかずな意見って面白くないと思う人多いよね、たぶん。
「絶対こうだ!」という強い意見は魅力的だ。だって、意見が強ければ強いほど、その答えに依存できる。自分で考えなくてもその答えに依存できるから、楽だから。
だけど、私は、時間がかかってもめんどくさくても、答えのあるような、ないような事を考えて自分なりの「今の時点での答え」を見つけたいな~と思う。
という事で、しまりが悪いけど(笑)今日はこの辺で終わりにします!
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~!



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