今日はちょっと母との会話での気づきだす。(だす?)
気づきのキーワードは「言い訳」「逃げ場」「受容」「自発的」だ。
しばしお付き合いください。(よろしくお願いします)
(今回長文です。ゴメンナサイ)
「昔の時代がそうやったから」
母が言った。
私はただ「そうだよね」と答えた。
私が息子の癇癪に対して、とことん付き合う姿をみて母が放った言葉だ。
「昔やったらめっちゃ怒って…ってやってたもんなぁ」
そう。
そうだよ。
母は昔とても怖かった。
そんな感覚、すっかり忘れてたけど。でも、以前の私は「母は怒るとめちゃくちゃ怖い」ということをずっと思っていた。
とにかく「力」で抑え込む。「怖さ」を与えて大人しくさせる。言うことを聞かせる。
そんな感じだった。(実際はわからんけど、私の記憶ではそう感じていた)
だから、母からすると、私の子育ては「甘い」のかもしれない。
そんなことは母は言わないけど。
なんなら今の私の子育てを「すごいな、よく頑張ってるわ」と感心した様子でほめてたりする。
私の子育てに介入せず、ただ認めてくれているのはありがたい。
そう思う。
さっきの母との会話で私が心の中で思っていたこと。
それは、
「母が怖くて自分が萎縮し、機嫌を伺っている自分が嫌だなと、そんな思考グセがついた自分に苦労したからそんな子育てをしたくないと思って今の形になったんだよ」だ。
このことに関して。
「私は母を理由にして自分の性格がこうなった」と原因論で今は考えていない。
むしろ「その経験のおかげで」と感謝している。
(だから母に対して、マイナスな気持ちを持って会話しているわけではないと言うことだけ前提として書いておきます。)
私は母との会話で、母の心の中に感じているものをキャッチしていた。
「昔の時代がそうやったから」
これは、昔は力技で親が子供を叱るということが当たり前だったというニュアンスだ。
そして、それを「理由」(いや、ここではあえて「言い訳」と言う言葉を使うよ)にして、母は自分を肯定しているなと思った。
違うかもしれんけど、私はそう感じた。
「時代のせい」にしてしまわないと、自分のしてきたこと、つまりは自分の人生を「否定」してしまうことになる。
確かに「時代の影響」はあると思う。
だけど、その時代で生きていた人で「力技で子育て」していない人もいたはずだ。
だから、影響はありつつも、その行動を選ぶのは「自分自身」なんだよな、と思う。

母はそんな「子育て」しか知らなかった。(怒る時に怖い気持ちを与えるような怒り方、子供の言い分なんて聞かない感じ)
みんな自分が経験してきたことがベースになる。それが「当たり前」だと思ってしまう。
だから「怒ること」で子供をコントロールした。
「注意」ではなく「怒り」で。
そこには母の個人的な「感情」がむき出しだったこともある。
それを子供ながらに感じて、いつしかできるだけ「母の機嫌」を伺うようになっていったんだよなー。
何度もいうけど、別に母に文句を言いたいわけではない。一生懸命育ててくれたことに感謝している。
ただ、そう感じていた、という事実を文章にしているだけだ。
だから、私は「昔の時代がそうやったから」という母の言葉に対して、肯定的に「そうだよね」と答えたのだ。
口が裂けても、
「いや、とは言うけどな、昔はお母さん怖かったで!だから私は子供に対してそんな怒り方をしたくないと思ってるねん!」なんて言えない(笑)
今更、母を責めたくない。そんな事がしたいのではない。
だから、
色んなことは思いつつも「そのままの母」を受け止めた。そう、「受容」だ。
そして、これはある種の「心の逃げ場」的な意味をもつ。
「言い訳」って聞くと、なんかあかん感じがする。自分の非を認めずになんかずるいよ、みたいな。
でも、「言い訳」が必要な瞬間もある。それは心が「一時的に」避難する場所。
メンタルが弱っている時。自分の非を認めるというのはすごく酷だ。
ただでさえ自己評価が低くなっている時である。追い打ちをかける様にまた自分の「嫌な部分」を見つけてしまったらすんごくつらい。
だから、「言い訳」を使ってでも、一旦、心を避難させる、休憩させることってすごく大事なんだと思う。
そして、他人に、そんな自分をも認めてもらえると、心から安心できる。次第に心が回復する。
心が回復してしまえば、言い訳していた自分を見つめ直すことも可能だ。
というか、勝手に自然とそんなタイミングがやってくる。(と思う)
自覚することができれば、気をつけて、直すところは直して、後は前に進むだけでいいんだから。

「そのままを受容」すること。
「一時的に心を避難」させること。
そういうことが必要な人はたくさんいる。
自分で自分を認めて、前向きにいける人もいる。
だけどそうじゃない人だっている。
誰かに「そのままの自分」を受け入れてもらえることで救われることもあるのだ。(私はそうだった)
ちょっと話は変わって、
今、母はまた別の課題と向き合っている。
実姉のことで頭を悩ませているのだ。
そして、いつもお姉さんの困った言動に対して大激怒している。(実際お姉さんにも怒ったりしている)
客観的に見ている私は、母の気持ちもとてもよくわかる。
感情的になってしまう気持ちも痛いほどわかる。
だから、
「もっと冷静にこうしてみたら?」とかは言わない。直接、関わってない人間がとやかく言うのはこれまた失礼な事だ。
なので、感情的に怒ってしまおうが何だろうが、母の話を聞いてはひたすら肯定して共感していた。
そして今回の母の一言だ。
「昔の時代がそうやったから」
昔も今も「感情的になって怒りをぶつけている」母がいる。
でも、どこかでこの方法ではあかんとおもい始めている母もいるんだろうな、と母の表情からなんとなく私はそう感じていた。
この会話の後には、まだ続きがある。
一旦おさまった子供の癇癪が再びおこり、私はこれまた根気強く彼と向き合っていた。
とにかく、冷静に彼を受け入れ、認めつつ、タイミングをみながら彼が落ち着くのを待っていた。
途中、しびれを切らした母が彼に意見する瞬間があった。
だけど私は母に無言で「今は大丈夫」と合図をし、母は黙って様子を見守ってくれていた。
その日の最後、母はポツリとこういった。
「お母さんも頑張ってみるわ。怒りに任せてギャーギャー怒らんとあんたみたいに根気強くやってみるわ」(お姉さんに対して関わり方を前向きに変えてみる、という意味)
私は驚いた。そして同時にとても嬉しかった。

くも膜下出血で後遺症と戦う父のサポートと、母自身、仕事の内容が変わったという状況だけでいっぱいいっぱいの母。
お姉さんのことまでこれ以上、完全に関わるのは無理だからと、できるだけ距離を取るようにしていた母。
母自身に余裕なんてものはなく、お姉さんとしゃーなしで関わらなあかん時は激怒することしかできなかった母。
そんな母を最近ずっと見てきていたから、そんな母の変化に驚いた。
関わることを避けるのではく、
自分の今までの対応を見つめ直し、
今の自分にできることを考えて、
前向きに向き合っていく。
すごいことだ。
母が一生懸命自分と向き合い、
自分のタイミングで、また今までと違う行動を、
前向きな一歩を出す決意をしたことに感動した。
本当に母が今、大変なことはわかっているから。
だから「すごいな」って思った。
今回の一連で私が気づいたこと、学んだことは、
「人に必要なことは、いらぬ助言よりも、ただシンプルにそのままを受容すること」だ。
どんな状態でも、そこに受容があること。
「どんな自分でも受け入れてもらえた」と本人が思っている実感が、
いつか「自分の殻を破る時の勇気」にかわる。
何かを「言い訳」しなくても大丈夫になる。
できなかった自分をも受容できるようになっているからだ。
だから「言い訳」する必要もないし、
「何かのせい」にする必要もない。
そしてあとは、ただただ、
自信をもって「やってみよう」と前に進んでいける。
例えうまくいかなかったとしても、
「じゃあ次はどうしようか?」と自分で軌道修正できる。
本当に必要なことは、
まずは「受容」なんだなって本当に学びになった。
例えその時、自分の中で「それはちがうんじゃない?」と思う事があったとしても。
それに気づくのには、その人の適切な「タイミング」がある。
学びには人それぞれ「ベストタイミング」があるのだ。
そのことがわかれば、
私自身も人に対して「余計なお節介」は気をつけようと思えるようになる。
そして、私自身もそうだ。
今まで、私が変なことしたり、失敗したり、、、色々あったと思うけど。
それでも、そんな自分を受け入れてくれた「大切な人たち」に感謝しかない。
今後もきっと私も間違ったり、失敗したりする。必ず。
だけど、
やっぱりそれもまた必要な経験なんだよな。
それがあってこその「気づき」や「学び」だったりするんだもん。
どんな時でも、
相手を受け入れる。受容する。
相手の「ベストタイミングの学びがある」と信じて待つ。
これも大切な心構えなんだよな。
本当に勉強になった。
もちろん、これが全てに当てはまるわけではない。
時として、助言が必要だったりすることもある。
余計なお節介が役に立つこともある。
だから、その時その時、考えるしかない、
唯一の答えなんてないんだから。
今回の学びに感謝だ。
本当にありがたい。
そして、私は、できるだけ「受容」ができる心の余裕を育てたいな。
結局「見るべきは己」だ。
はい。精進します!(長々と読んでもらってありがとうございました!!!)
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~





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