執着を手放すということに感じる心の軽さとモヤモヤ。その理由はなに?

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「執着を手放す」ってどういうことか。

それを今日は改めて考えてみます。(どうかお付き合いくださいませ~)

 

この問いを考えるといつも、納得しつつモヤって終わるということによくなるので、今日はとことんモヤってみよう。(なんだそれ。でも逆にスッキリするかもしれないしね) 

 

「執着を手放す」

この意味を考える。

「手放す」はシンプルに考えるとじぶんの中にあったものを「捨てる」って感じだ。(もしくはバイバイするみたいな) 

 

じゃあ「執着」ってなんだ?

 

この「執着」の部分には色んな意味が入ってくる。

形あるもの、形ないもの全部。

「形ないもの」は例えば、「思い込み」「価値観」などの「考え」とか。こういうのも入る。

あとは「お金」とか、「子ども」とか、「関係」とか「結果」とか、、、とにかく色んなものが「執着」の対象になる。

 

 

執着ってネットで調べると「ある物・事に強くひかれ、深く思い込んでどうしても忘れ切れないこと。」と書いてあった。

 

執着をきっかけに「欲」が生まれる。

「お金持ち」に執着すると「お金」が欲しくなる。「お金」が欲しくてたまらない。「お金持ち」以外は考えられない。

こんな感じで「執着と欲」ってつながっている。

 

色んなものに執着しているとどうなるのか。

それは「とても生きづらくなる」という事だ。

 

色んなパターンで考えてみよう。

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執着するとそれ以外では考えられない

「生きづらくなる」という視点で考えてみる。

さっきの「お金持ち」に執着すると、「お金持ち」じゃないと絶対ダメってなる。なにがなんでもそれがいいってなる。

つまり「お金持ち」の状態が自分にとっての「幸せ」だから「お金持ち」じゃなくなったとたんに不幸になる。

 

「お金持ち」の定義もその人によって様々だから、なんとも言えないけど、とにかく自分の思う「お金持ち」から外れた時点でずっと「不幸」が続くのだ。

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これじゃないとダメが多くなるとしんどくなる

「お金持ち」以外でも、とにかくなんでも「これじゃないとダメ」がたくさんあればあるほど「幸せ」からは遠ざかる。

もちろん全部を手に入れたり、維持したりする事ができればずっと「幸せ」な状態なんだろうけど、今度はその状態を維持することに精神コストがかかる。

失う怖さ、無くなる恐怖と常に戦わないといけない。

 

以前読んだ本で(天を味方につける生き方/山納銀之輔著)お金持ちの人がわざわざエコビレッジを作るノウハウを学びに来るのを知って、お金があればあるほど「恐怖」におびえ、家を鉄格子で守り、自分たちが檻に囲まれた生活をしているという事にすごく考えさせられた。

持てば持つほど、不自由になる。

まぁ、私はそんなお金持ちになったことがないから想像もできないけど。貧乏には貧乏の、お金持ちにはお金持ちの、いろんな角度からの苦労があるんだな~

 

思考(マイルール)もお金もなんでも、持てばもつほど豊かではなく不自由になるのなら考えものだな。

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執着や欲は悪いものなのか

でも、ここで一旦逆説も考えてみよう。

そもそも執着とか欲って悪いものなのか。

 

人・物・事にとらわれて離れられない心の状態が執着。

すること。 願うこと。 ほしがること。 むさぼり求めることが欲。(むさぼり求めるて…)

 

それってやっぱりなんでも捉え方なんじゃないかなと思ったりもする。

悪い見方もできるし良い見方もできるってことだ。

 

昔読んだ「夜と霧」(ヴィクトール・フランクル著)という本で、第二次世界大戦中のナチスドイツの強制収容所での体験を基にした心理学的な記録が書いてあるのだけど、そこで生き延びた人達の共通する部分が「信仰心」もあるのかなと個人的には思った。

信仰心って神様や仏様へのっていう意味が強いイメージだけど、私は神仏以外でも絶対的なものとして信じ、帰依する心も信仰心と呼べるなと思うので、とにかく「信じる心」が生きる上でとても大切になることもあるんだと学びになった。

 

絶望的な状況の時「神様は必ず助けて下さる」と信じて、それこそ盲信して、生きる勇気がわいてくるのならそれはそれでオッケーだ。

「信じるものは救われる」ってことだな~

 

まぁ信仰心と、執着はまた違うんだけど、「生きる事に執着する」という意味では力強く生きていけるもんね。

 

そして、欲もそう。

欲があるからこそ、エネルギーが湧いてくることもある。「やったるで~」って思えたりする。

一般的に言われてる「三大欲求」は、食欲、睡眠欲、性欲だ。

これらは生命維持に不可欠な本能的な欲求。でもこれだけじゃない。他にも財欲、名誉欲、承認欲求とか、より高次な欲求も存在する。

 

生命維持に必要不可欠な欲と、生命維持には必要ないけど、心にとって必要な欲。

全部の欲が生きていく上で、時として、人生に彩を与えてくれることだってあるんだ。

欲は生きていく上での活力剤

だから欲って大事だ。

欲があるから、走れる。まるで車でいうとガソリンって感じ。

 

生きていく上で、やる気の源にもなる。

それが行き過ぎると、やっぱり手に入らないことで不幸な気持ちになったりするから、バランスが大事なんだろうけど。

 

「こうしたい!」「これが欲しい!」「こうなりたい!」があるから、もっともっと前進できる。

 

欲って大事なものだ。

結論「どっちもオッケー」

そう。結局、生きやすくなるためには「どっちでも幸せ!」と言える自分になることが一番はやいのかもな~と今の時点での私の結論です。

 

なんか、欲や執着を手放すことはとっても楽になれるし、身も心も軽くなる。

だから、手放すことはやっぱり,がんじがらめのいろんなものから解放されるという意味でとても幸せだ。

「今のままで十分幸せやん」と思えば、今すぐにでも幸せになれる。幸せはただ「気づく」だけでいいのだ。

 

でも。

視点を変えて「成長」という角度から見ると、伸び率が下がると思うんだよな~。

「もっとこうしたい」という欲があるからこそ進歩があったりするのに「今のままで幸せだ~」って思うと、変えなくてよくなるから、進歩がない。

  

だからなんでも、通りいっぺんじゃなくて、自分に対して成長したいときは「欲」は必要だし、色んな思考にがんじがらめになって息苦しい時は、欲や執着を手放したりしながらいくのがいいのかなと、思うわけです。

 

なんでも、バランス。適材適所。いい塩梅。

そのええ加減が難しいんですけどね。ほんま。

 

でも、手放すぞ~という気持ちと同時に起こるモヤモヤはそういった正反対の矛盾する気持ちにあったんだなと改めて思いました。

 

あぁ、人間。

私、めっちゃ人間してマス。(煩悩だらけや~)

 

なんでも、その時その時一生懸命考えて出た答えが「その時の自分にとっての最良の答え」だ。

 

正しい答えは必要ない。

自分がその都度、確認して納得することが大切なんだ。

 

ということで、モヤりつつ、それでも、いい塩梅にたもち、必要な時は手放しながら、人間を楽しんでいこうと思いマス。

 

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!

この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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