私「今のお店、いい感じだったよね」
夫「え?そんなお店あった?」
私「今あそこで歩いていた人と一緒にいた犬可愛かったね」
母「え?そんな犬なんていたっけ?」
私「今日見た映画、あそこの部分でめちゃクチャ感動したよね!」
夫「え?そんな感動するところあった?」
みんな、見ている物は同じでも、見えているものは違う。
みんな、自分のフィルターを通して世界を見ている。
同じ世界に住んでいるのに、一緒に居ないみたいだ。
それでも、自分の世界と相手の世界の重なる部分を共有して生きている。
よく考えると「色」だって全く一緒の色が見えているなんてのは証明できない。
結局は、みんな自分の見たいように、目の前の物をみて感じている。
おもしろいなぁ。
それでも、なんとなく、「同じ感じのこと」で感動したり、共感したりできるのは、抽象的にとらえて想像できる力が人間にはあるからだろうな。

人間の「同期現象」について、ちょっと調べてて、
感情は伝染するとかいうけれど。
それは、目に見えない不思議な力が働いているような気がするけど、人間の素晴らしい能力がちゃんとあるからだ。
人間の脳は常に「この場は安全か?」を予測しているらしい。
具体的には、
- 瞬間的なマイクロ表情の変化
- 微細な声の揺れ
- 姿勢の傾き
を無意識に検出してる。
自分では気づいていないだけで、脳は確実に感じ取って、処理をしている。
しかも、驚くべき速さで。高速処理している。
そして、同時に脳のミラーニューロンの働きも起こっている。
無意識に脳のなかでは相手のそういった微細な動きを真似することが起こっている。
そして、それによって、心拍数が上がったり、呼吸が荒くなったりして、その身体変化に伴って、そういった状態になりがちな「感情」の神経回路が活発になる。
結果、似たような感情になったりする、みたいな。
詳しく説明するともっと、複雑にいろんな働きが同時並行で起こっているんだけども。
いやー。
人間ってすごいや。
そして、その感度が高いひとは、より、相手からの影響を受けやすかったりするんだけどね。
一緒にいても、なにも影響を受けないひともいるものね(笑)
で、
こういった知識を得た上で、改めて私が思った事は。
私たちは思っている以上にお互いに“影響し合っている存在”ということ。
そして「やっぱり自分次第なんだな」ということだ。

めっちゃ飛ばして結論いったから、なんのこっちゃだよね(すいません)
子どもと話しているとき。
夫と話しているとき。
結局、私が相手の事を「どう思っているのか」というのが、自分でも気づかないレベルで、相手に伝わってしまっているということだ。
子どもに「信じているからね」といっても、内心、不安な自分がいるならば、それは、めちゃクチャ細かいレベルで、何かしらのサインを私が出してしまっているのだ。
眉間の緊張、顎の硬さ、姿勢の強張り、呼吸の浅さ。
そういった部分を意識でコントロールしているつもりでも、コントロールしきれていない。
必ず、サインで出てしまう。
そして、相手も、それを無意識の部分で感じ取っているのだ。
だから、なんとなく、本当に無意識の部分で「何か違和感」を感じ取っている。
結局、お母さんが落ち着いていると子どもも落ち着いてくる、みたいなのはあるんだろうな。
もちろん全部のパターンではないだろうけど。
だからこそ、相手ではなく結局「自分次第」なのだ。
人間関係も親子関係も。
相手を信じるといいながら、なにか「不安」があるのなら、その原因を見つめてあげないといけない。
根本的にそこをみないと解決できない。
なぜ、信じられないのか。
なぜ、不安なのか。
どういう思い込みがあるのか。
この思い込みは果たして、本当にそうなのか?
そう言って自分自身に潜るしかないのだ。
そこで、自分のいろんな思い込み、価値観を手放していって、そこでやっと、本当に、相手を信じることができる。
自分のなかの変な価値基準が無くなるからだ。
ジャッジするための材料が無くなれば、そもそもそこにマイナスな感情はわかない。
相手と話をしていても、変なサインはでない。
本当に、安心しているから。
自分自身が心からゆるんでいるから。
だから相手も安心する。心から、安心できる。それは無意識レベルでの安心だ。
なんで、こんな話をしたのかというとね(笑)
実は今度、私の弟が「私に話をしにいきたい」、と言っているから。
私の父もそうだったんだけど、弟もギャンブル依存でいま、自分と向き合って頑張っている。
その間にもいろいろあったんだけど、いま、やっと弟が自分の中で自信がでてきたのかな。
私に「今の自分」が頑張ってやっていること、今まで迷惑をかけたことを改めて謝りたいとのことらしいのだ。
そこまで行けただけでもすごいな、と思う。
話を聞く時に、私はどんな姿勢で聞こうか、と考えていて。
そして「結局は自分次第」ということに繋がるんだけど。
私に「不安」や「疑い」があれば、必ず、弟にそれが伝わってしまう。
私は弟に「必ず立ち直れる」「自分に自信を持ってほしい」とずっと思っていた。
だけど「またやるのではないか」という不安な気持ちがあったことも確かだ。
それは今もあるのか、どうなのか。自分では「信じよう」と思っているんだけど、潜在意識ではどう思っているのかな。
というか「信じよう」とおもっているのは、反対に考えると「信じれていない」からだ。
「信じよう」と思っている。
それは、裏を返せば、
まだどこかで信じきれていないということ。
だから「信じよう」ではなく「信じている」じゃないといけない。
このことばの違いは大きい。
じゃあどうすれば「信じている」になるのか。
なぜ、信じていない自分がいたのか。
正しくは、信じれない自分がいたのか。
それは「自分がこれ以上傷つきたくない」からだ。
もう少し深堀りすると、私の場合、
父に裏切られ、そのあと、弟に裏切られた。
「嘘をつかれる」「裏切られる」という出来事と「自分の価値」が私のなかでイコールになってしまっていたから、
「私がこんなんだから裏切られたんだ。私には価値がないから」という誤った認識につながっていた。
でも、今は、その出来事と「私の価値」はイコールじゃないというのがわかっている。
そんなものは関係ないのだ。
いま、こうして、話をまとめながら、もう一度自分に考えをしみこませている。
「だいじょうぶだよ」って。
だから、次、このままの気持ちで、なにも考えずに、話を聞けるかな。
うん。
聞けそうだ。
相手を「変えよう」と「コントロール」するのではなく、結局、「自分が整う」ことが一番だいじなんだよな~。
信じるということは、相手をコントロールしない覚悟なのかもしれないな。
改めて、気づきなった。
だいじょうぶ。
人間はいくつになっても、何歳でも、成長できるし、変わっていける。
人間は素晴らしい。
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~





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