「いつも行く取引先の警備のおじさんがものすごく愛想が悪くてさ!」
友人は気分を害していた。
「挨拶しても無視やで?腹立つ!」
うんうん。その気持ちとてもわかる。腹立つよね。うん。
友人は相手への気遣いをとても大切にしている人だ。
「気持ちわかるわ~。そりゃ嫌やんな」共感したのち、今日はちょっと角度を変えて話してみようという事になった。
「その出来事、ほかにどういう見方ができるかな?」
物事の感じ方は見方で180度かわることがある。どの答えが「正しい」のではない。自分がどの答えを「採用したいのか」だけだ。
愛想のない人。無視してくる人。無反応な人。いろんな人がいる。自分と全く同じ価値観の人を見つける事の方が難しいもの。
なにかに対して心が反応したとき、それはチャンスだ!と考えることができる。
自分の中で「こうあるべき」という考えがあるのに、予想外の事が起きたから心が反応している。自分の「思い込み」に気づくチャンスなのだ。
みんな自分の主観で動いている。自分が正しいと思っているし、自分でもそう思っていることに気づけないくらい当たり前のようにそう思っている。
今回の場合、友人のなかで「挨拶はするべき」という思いがあるのかもしれない。もしくは「人に対しての気遣いをすべき」があるかもしれない。いろんな「こうあるべき」がきっとある。まずは自分のなかにどんな「こうあるべき」があるのかを知る事だ。
大事なのはここでジャッジをしないことだ。
「こんな事を思っている自分が悪かった」
そんな風に自分を責めるために、自分のなかに潜っているわけではない。ただ気づくためにしているのだ。
「そうか、そんな思いこみがあったのか」
そう思ったら、そのあと、もう一度出来事を振り返ってみる。
「本当にそれはそうするべきだったのかな?こんなにも怒ることなのかな?」と。
そこで、やっぱり「いや、それは社会人として当然の事でしょ!」と思うならそれも良し。
逆に「いろんな人がいるしな、そういう人もいるか、自分の考えが絶対に正しいわけじゃないし」と思うも良しだ。
本当に「無理!」と思うなら、どうしても接さなければならない場合は、心を入れず、業務的に仕事としてその人と接するという選択もいいと思う。心にバリアをはる!みたいな。
でも、なんか違和感というか、なんか気になる場合はもう少し、深ぼってみよう。
「ほかになにが考えられる?」
仮説ゲームだ。「もしかしたら~かもしれない」と思いつく限り考えてみる。別に唯一の答えはない。一つの答えを出すのではなく、いろんな仮説を立ててみる。
それだけで「見え方」が変わってくることもある。

もしかしたら、極度の人見知りなのかもしれない。(自分が平気にできることでも相手からしたらすごく難しことってある。だから自分では気づけないことってある)
もしかしたら、人に対して恐怖心があるのかもしれない。(過去に悲惨な経験をして警戒心が強いのかもしれない)
もしかしたら、介護とかで心が疲れ切っているのかもしれない。(心が疲れ切っていると他人に気遣いする余裕が持てない)
いろんな「かもしれない」が考えられる。
でも、本当にただの愛想のない人ということも考えられるけどね(笑)
それも、本当のところはわからない。
でも、すこしでも「かもしれない」を考えてみると、単純に「ムカつく!」と思えてこなくなる。
人間って不思議だ。「出来事」は同じなのに「見え方」が変わると「感じ方」まで変わってくる。うん、本当に不思議。
別にムカつく自分が悪いことではない。ムカついたのならそれはそれでいい。ただ、自分はどう「在りたい」のかが大事だ。ご機嫌でニコニコしていたいのなら、少しでもそうできるように、ちょっと「かもしれない」を考えてみることも一つだよね。
ちょっと話は逸れるけど、母の職場に「コミュニケーションがものすごく苦手」な若い子がいるらしい。
他のまわりのおじさんとかは、そんな彼の態度に腹を立て、文句をいい、彼に対してもすごく冷たい態度らしい。だけど、母は違った。
反応が薄くても、毎日彼に笑顔で挨拶をし、彼が興味をもってそうな話題をふり、コミュニケーションをとることを続けた。
周りと同じような態度をとることもできたけど、母はそうしなかった。そう「したくなかった」んだ。
すると、何か月か経った今ではその彼は、母には小さな声であっても挨拶をするようになったし、会話もラリーが続くようになったらしい。
これって何気にすごい。母ってすごいなとつくづく思った出来事だ。
彼の過去になにがあったのかはわからない。トラウマなのか、もともとの気質なのか。わからないけど、コミュニケーションが苦手でも、歩み寄ってくれる人がいたら、優しさ(愛情)を与えてくれる人がいたら、応えたいという気持ちになったという事は事実だ。
先に愛すること。求める前に自分からすること。
母よ、かっこいいぜ!
自分がどう在りたいのか?
そこには、相手の反応なんて関係ない。
わかりやすく言うと「自分軸」だ。でも、自分軸っていう言葉だと味気ないな。そんなスパン!と線を引く感じの印象で言いたいわけじゃない。もっと、優しくて愛がある。相手との線を引く感じじゃなくて、自分はただ「こう在りたい」という純粋な気持ちだけがある状態だ。
こちらが愛想よくして相手が自分の思ってた反応と違った場合に腹を立てるのは、厳しくいうとそれは自分の「エゴ」を押し付けているだけなのかもしれない。(これは自分に対しても言い聞かせてマス)
自分がしたくてしているのにね。相手の反応は相手自身が決めていいはずなのにね。
相手の反応は気にしない。自分がそうしたいのか、どう在りたいのか。それが一番重要だ。
「愛の人」で在りたいのであれば、ただ、そうするだけでいい。
「思いやりの人」で在りたいのであれば、ただ、そうするだけでいい。
相手の反応が悪いと思っても、自分がそう思っているだけで、相手からしたらそれは精一杯の反応なのかもしれないしね。そして、そんな反応を責めることなく、非難することなく、受け入れつつ、自分の在りたい姿で接していたら、何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
どっちだっていいんだ。
でも、ありのままの自分を受け入れてもらった時に、心を覆っている氷みたいな膜が溶けていくこともある。否定からはいるのではなく、受け入れてもらって、「安心」できてこそ、人間はまた次の一歩がだせることもあるんだ。

相手のそのままを受け入れて、こう在りたい自分を貫き通し、結果、今の状態にある母。すげーーーーや。(二回目w)
友人とも話した。
「相手の態度にプンプン腹を立ててたら、結局、相手の世界で生きていることになるって考える事もできるよね。周りの人の態度に振り回されてるってことは相手基準になってしまっているということ。それは、相手によって自分の幸せが決まっているということ。でも、本来、自分を幸せにするのは自分自身だもんね。相手は関係ない。どう在りたいのか、どんな自分でいたいのかだけ」
二人で話しながら「ほんま、気をつけよなー!!!!」って笑顔で終われた。
こんな話に付き合ってくれる友人が最高だ。感謝です。
色んな「かもしれない」を探してみると、優しい自分になれる「かもしれません!」(笑)
仮説ゲーム、楽しんでみてください!
あなたの「こう在りたい」は何ですか?
私は「愛の人」で在りたいと思いマス!(精進します~)
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。では、また~



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