「生死」に対するイメージ。そのイメージはどこからくるのか?

生きるための引き出し
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またまた前回に続き、ちょっと繊細なお話をしたいと思いマス。

 

いろんな経験をするたびに、色んな感情がわいてくるので、やはりこれも記録しておこうかな、と。

(読みながら、やっぱり無理!とおもったら途中で閉じてくだサイ) 

 

2025年も残すところ、約ふた月ほど残っているんだけど、今年は私にとって悲しいお別れが二回あった。

一つは家族葬だったのでかわりに「お別れ会」があった。もう一つはお葬式に参列した。

 

 

どちらも経験したからこそ思うのだけど、実際に目でみてお別れするのと、しないのでは違うんだなと思った。

悲しい現実を目で見て受け止める。これってすごく大切なんだなって思った。 

 

関係性にもよるし、すべての人の葬儀に参列することは難しい。ご遺族のご意向により家族葬になることもある。

 

でも、参列してきちんとお別れすることで自分のなかでちゃんと現実を受け入れることができるんだよな、と経験しておもった。

 

 

「お別れ会」も自分の気持ちの区切りをつけるためにあるのだけど、参列した後も、やっぱり未だに信じられない自分もいることは事実だ。まぁでも、これはしょうがいないことだもんね。時間が解決してくれるのかな、と思うことにした。

 

 

 

日本では火葬が一般的だ。

火葬で本体の見え方が変化するのは、残された人間にとっての心の整理というか、切り替えみたいなことにも関係しているんだろうな、と思った。

実際に私がそうだった。

姿かたちがそのまま残っている時は、現実をわかっているけど、まだなんか気持ちがはっきりしていなくて、でも、形がなくなって違う形に変化した時に「あ、本当にもういなくなったんだな」って気持ちの区切りがついた。

だから実際にすべての過程を見届けるって大事なんだなって痛感した。

 

まぁ人数制限があったりするから、現実的にはみんなが見届けるというのは無理なのかもしれないけど、私が体験して感じたことは事実だ。

 

 

お葬式から始まり、そのあとも色々とすることがある。 

はっきりいって忙しい。でも、そうしながらも時間は過ぎていくし、その「時間」こそが残された人間にとって必要で大事な時間になっているんだろうな。

なにもすることがない方が要らんことを考えてしまったり、意識する時間すべてが悲しみの時間になってしまう。

 

人間、良くも悪くも「慣れる」いきものだ。

 

時間と共にその状況に「慣れ」てくる。そこで現実を受け入れるようにもなる。

 

そんなことも考えた。

 

  

前にも書いたけど「生死」にかかわることを経験すると、嫌でも自分の「死」を身近に感じる。

その時にくる感覚は「こわい」だ。

「死」は「こわい」もの。これが私の瞬間的にくる感覚だ。 

 

あなたはどうかな?

みんないろんな感覚があると思う。  

 

でも、なんで私は「こわい」と感じるんだろう。

それをもう少し考えてみると、見えてくるものがある。

 

「死」と聞くと、どうしても「苦しくて」「痛くて」みたいなものが「死」にくっついていることがわかった。私は「死」と直結して体の感覚的な「痛み」をイメージしてしまうみたいだ。

 

だから「こわいな」と思っているんだとおもった。

 

 

あとは自分が経験したことがないから「こわい」というのもある。

ドラマや漫画などで不幸な死を遂げる人達をみてそれが記憶に残っているから「こわい」イメージがあるのもある。

 

そんなことを考えてたら「なんで死に関係することって怖いイメージが膨らむような情報が多いんだろな」とおもった。

 

「悲惨な死」とか「孤独な死」とか。

そんなんばっかりだ。

 

そういう事が実際にあるのだからしょうがないんだけど、それならば、同じように「幸せな死」ももっと情報にあがってきて欲しいな、と思う。

どっちか偏った情報が多くなるのは不公平だよね。 

 

 

聞いたことがあるのは、人間の役目を終えて魂になると、重力を受けなくなるし、神経とかも関係なくなるから痛みとかを感じることもないらしい。その代わり、ずっと軽くて温かくて「気持ちいい感じ」らしいのだ。もちろん、魂になった時点で人間が持つ執着みたいなものも感じなくなるから、やっぱり「いい感じ」なんだろうな。

だからと言ってわざと「死」を選ぶことはだめだけど、必要以上に「怖がる」必要はないという事だ。

 

 

 

物ごとには両方の側面があるんだから、どっちか一方だけってのはない。

表と裏。闇と光。

絶対に両方ある。

 

 

「その時」が来るまでは、精一杯、自分に与えられた「役目」を果たすこと、これが大切だ。

 

 

そんなことも考えた。 

 

まだまだ色んな気持ちがわいてくる。

 

亡くなった義理のおばあちゃんは幸せな人生だったのかな?と、そんな気持ちもわいてくる。

わいてくる感情は悪いものではないから、そう思った自分のその気持ちを静かに見つめる。

 

 

「そうか。幸せだったかどうかなんて他人が心配したり、決める事ではないか。おばあちゃんが決めることなんだよな」

 

私は元気だったころのおばあちゃんと、具合が悪くなってからのおばあちゃんを比べて考えてしまっていた。「あるもの」をみずに、「失ったもの」に焦点があたっていた。

余計なお世話だな、と自分自身につぶやいた。

 

人間は必ず歳をとる。若い時はできていたことが、できなくなったりもする。

でも、若い時よりも「増える」ものもある。

それは「知識」や「経験」だ。 

 

人に関われば何かを与えたり、与えられたりする。

 

おばあちゃんはたくさんの人と関わり、たくさんのものをいろんな人たちに与えてきた。

それは目に見えないもの、形ないものも含めて。

 

 

「できなくなったこと」「失ったもの」に焦点を当てるのではなく、「やってきたこと」「与えてきたもの」「今そこにあるもの」に焦点を当てる。

すごく大事なことだよなと、改めて思った。 

 

 

人の数だけいろんな人生がある。

それを「幸せだったか」どうなのか。決めるのは本人だ。

 

 

「生き様」

 

これは形があるものではないけど、人の「生き様」が自分の心のなかに残り、自分の人生に影響を与える。

生き様も「与えてもらえたもの」になる。

 

どんな時も人のために真っ直ぐに、自分を貫き生きる。

 

そんな「生き方」も改めて考えさせてもらえた。 

 

 

今夫は、おばあちゃんの四十九日が終わるまで毎日「般若心経」をよむと決めてやっている。これは誰に言われたわけでもなく、夫が心のなかで決めたことだ。

最初は二階でやっていたから気づかなかった。2~3日後にお経を読んでいることにきづいた。

 

これもまた、夫の生きる姿勢「生き様」だな、と思った。

 

どんな時も、自分がやっていることすべてに気持ちを込めてやりたいな、と夫をみて思った。夫の気持ち、夫の生き様を見習おうと思った。 

 

 

家事をしている時も、仕事をしている時も、何をしている時も、

「気持ちを込める」

 

 

当たり前の事だけど、とてもとても大事なことだ。 

 

 

そんな事を考えた数日間でした。 

 

淡々と感謝して生きる。

何があっても、何もなくてもありがたい。

  

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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