刺激と反応。エゴがあるから。エゴのおかげで。いろんな意味づけ。

生きるための引き出し
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今日はふと思った事をそこまで掘り下げずに、つらつらっと書きたいなという気持ちが強いので、そんな文章でも良ければお付き合いいただけると嬉しいです。(いつもありがとうございます)

 

ではでは。。。

 

 

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刺激があるから「感情」が生まれるのだ

 

ちょっと前に、ブログを書こうとパソコンを立ち上げた。

だけど一向に文章が思い浮かばない。

ここ数日、何にもなかったわけではない。だけど。そこまで自分のアンテナに引っかかることがなかったのか、もしくは忘れてしまっているのかもしれない。

 

そんな状況でふと思う。

 

改めて、アウトプットしようと思ったらインプットがないとできない。

「刺激(インプット)」を受けて「感情(アウトプット)」が沸き起こる。 

 

五感を通じて刺激を受ける。その刺激に対して「快」か「不快」の感情が起こる。 

 

感情がわき起こるからこそ文章が書ける。「書きたい」という気持ちになる。

 

 

人と会う。外に出かける。物を食べる。

いろんな刺激はあるが、人によってどの刺激で感情が動くかはわからない。 

 

「刺激」によって自分の中の「当たり前」が覆されるとやはり感情が沸き起こる。

 

となると、自分の中の「当たり前」が多ければ多いほど、「刺激」に対する「反応」は増えるのかもしれないな。

じゃあ、私が目指している「悟り」的な、「中庸」的な、そんな感覚を完全に身に着けると、「当たり前」がどんどんなくなっていっているわけだから、「反応」自体も起きないんだろうな~と、そんなことも考えた。

 

ブログをかきたい欲がある私は、まだまだ悟ってはいませんね(笑)

「エゴ」があるから、文章がかけるんだもの。表現したいもの、欲求がないと生み出せない。

 

自分で自分を「煩悩だらけやな」と思うけど(笑)、でも、そういった視点で考えると、煩悩も悪いものではないのかも。(知らんけど)

 

エゴをなくさなきゃ、煩悩を消さなきゃ、悟らなきゃ、と思っている時点で無我の境地にはたどり着けない。

「思い続けていること」自体が論外なのだ。

 

その境地に行けた人はもう「そんなこと自体」を考えてはいないのだから。

 

うーーーむ。深いな。

そんな事を言っている私はまだまだ全然「思い続けたり」「考え続けたり」してますよ(笑)

 

だから、もう、無我の境地にいくよりも「ここにいたい」のかもしれないな(笑)

 

そんな事を考えた昼下がり。

 

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イマイチな反応に落胆。だけどそれこそがエゴだったのか!

 

私は藤井風さんの大ファンである。

 

風さんの曲の中で私が大好きな曲を自分も奏でたい!という気持ちからスコアを買ってピアノの練習に励んでいる。

 

弾きたい曲がある程度、弾けるようになったので母に聞いてもらう事にした。

 

私の母は幼少期にピアノが習いたくて、でも家が貧乏だったから習えなかった。その願いを達成するために娘の私にピアノを習わせた。

ありがたいことだ。

今こうしてピアノが弾けるようになったのは母のおかげだな。

 

ピアノの音色が大好きな母。

だから母に聞かせたかったというのもある。喜ぶ顔が見たかったのだ。

就職したころからピアノの時間が無くなり、子どもが生まれてしばらくするまではピアノから遠ざかっていた。

 

だからこそ、久しぶりに母にピアノの演奏をきいてもらえることにワクワクしていた。

さらに私の大好きな藤井風さんの曲だ。気に入ってくれるはず。余計に期待が膨らんだ。

 

しかし。

しかーーーーし!

 

母の反応は私の予想を下回った。

というか、ピアノで聞いてもらった後、さらに「原曲はこれやねん」と動画をみせたのだが、本当に想像より反応が薄かった(笑)

 

私が藤井風さんを好きすぎたんやな(笑)

「めっちゃ素敵な人やな!」と言って欲しかったんだよ~。

一緒になって「いい曲だ!」と盛り上がりたかったんだよ~。

 

 

母の反応を見て心では「え?めっちゃ良くない?伝わらへんのかーい」と思っていた(笑)

 

まぁピアノ演奏自体は喜んでくれたのはよかったんだけど、藤井風さんの良さはそこまで伝わらなかったみたいだ。うーーーん、残念。

 

そのあとも、なんだかなーって気分になってたんだけど。

しばらくして、気づいた。

 

「そうか!これが、まさにエゴの押し付けやないか!」と。

 

なんだかな~と思っている自分につっこんだ。

 

私が誰を好きだろうと自由なんだけど、

それを誰かに「好きなんだ!」と宣言するのも自由なんだけど、

それを相手が聞いて同じように「いいじゃん!」とおもうかどうかは相手の自由なのだ。

 

勝手に相手の反応を期待して、想像して、思ってたんとちゃうわい!ってなって「なんだかなー」となってた自分に苦笑いだ。

 

ピアノ好きな母というのが余計に期待を膨らませすぎてしまった。好みがあるものね。ほんま。うん。

 

 

こういう事ってほかの事でも気をつけようって思った。

相手の反応を勝手に期待して、落胆するってあるもんね。 

 

私はグリンピースが苦手だけど、どんなに熱烈にグリンピースの良さを言われてもやっぱり苦手だもの(笑)

 

エゴのおしつけ。気をつけようっと。特に自分が大好きなものほど気をつけよう。

 

まぁ普段はそこまで落胆みたいなものはないんだけど、今回は近しい存在の母だったという事が大きいな。

どうしても、エゴが強めに出てしまいがちだから。

改めて気をつけよう。はい。(自分に言ってます) 

 

そんな事がこの前あったのです。

そして、しょうもないことなんだけど、感情が沸き起こって、そこから自分の中で気づきがあったから、書いてみたくなりました。

 

 

エゴを手放していきたいと思いつつ、実際はエゴがないと何かを生み出せない。

私は本当にエゴを手放したいのか。

手放して、心は軽くなり、でも、本質的には満たされている。そんな状態がいいなとは思うけど、生み出せなくなることはイヤだなと思う。

でも、

そこまでいけたのなら、もう、そんな状態になっても「イヤだな」と思わなくなるのかもしれないな。

 

うーーん、なってみないとわからない。

 

でもやっぱり、ただ静かに心穏やかに在るのは魅力的だ。そこをイメージしつつ生きていたいかな。

 

あくまでイメージとして。生きる姿勢として。…生き様的な?

 

 

そんな気持ちでキーボードを叩きながらふと台所の床に目をやると、「もみ海苔」がひとかけら落ちていた。

長男が朝、ごはんにかけていたやつだ。

 

そういえば、さっきも、テーブルの下で海苔のかけらをひろったぞ。

あれも、長男が落としたものだ。

 

これをみて、何をおもうのか。

「落としちゃってかわいいな」と思うのか、

「また落としてるのね」と思うのか、

「もう!落としたのなら拾ってよね!」と思うのか、

その人のエゴによって思う事は違うだろう。

 

 

でも、エゴがなければ、それを見ても、「無」なんだろうか。

それとも、「ふふふ」と優しくほほ笑んだりするのかな。

 

 

まぁわからないや。

でも、私は確実に「も―――!」って思ったけどね(笑)

しっかりエゴが叫んでました(笑)

 

  

 

まぁそれでいいよね。そんな事を思っても、思わなくても、時間は過ぎていく。

いろんな「感情」と共に一日が終わる。

 

 

そこにどんな「意味づけ」をするのか。

 

どんな意味づけでもいいけど、私たちの意思とは違うところで、私たちの細胞は働いてくれていて、心臓を動かしてくれていて、生きる事ができている。

なにはともあれ「感謝」だ。

 

 

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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