未来から過去、時間の流れと他人を通じて自分を知ること

スピリチュアル
スポンサーリンク
※本サイトのコンテンツには広告が含まれている場合があります
※本サイトのコンテンツには広告が含まれている場合があります

時間は過去から未来へ流れている。
今まではそう思っていた。

でも、色々と学ぶうちに、時間は未来から流れてくるという感覚がしっくりくるようになってきている。


 


そう。それはまるで川のようだ。
上流から流れてくる川の水。私は川の下流でその水を感じている。
川の水に足を付けてただ立っている私。
 
その川には色んなものが流れてくる。そして私の前を通り過ぎていくのだ。

私は何をつかむのか。つかむのは自由だ。
 
 
つかまなければただ通り過ぎていく。流れていく。
 
 
 
みんな川の流れの中でそれぞれが色んなものを色んなタイミングでつかんでいく。私には気づかないものをつかみ取る人もいる。その逆も然りだ。

 

私はなにをつかむのか。もしくはつかまされるのか。
 
決めているのはわたしの意識ではない。
そう。私の無意識だ。

私の意識は「私がつかみたくてつかんだんだ」と後から勘違いをしているに過ぎない。
   
  
無意識が私を動かす。
私は常にオートモードだ。 

 
無意識の設定で何をつかむのか。何に手をのばすのかがかわってくる。
 
無意識の設定。
やはり大事だな。 
 
 

何に反応するのかも。
どのように感情が動くのかも。
 
意識でどうのこうのできる問題ではない。

 
意識できている時点でそれは無意識ではないからだ。 
 

意識しなくても考えていること。
ふと思う事。
つい反応していること。
 
 
そこに無意識のヒントが隠れているんだな。 

 
ふとした時に「あぁ、幸せだな」と思えるのであれば、無意識の設定はそういうモードになっている。
ついつい「マイナスな事を考えてしまう」なら、そういう設定になってしまっているのだ。 
 

そこの自分の思い込みに気づくこと。
そして書き換えることが重要なんだ。 

 
思い込みを見つけて「本当にそうか?」と見つめ直す。
なんのためにそう思うのか。なにを守ろうとしているのか。
私の心の奥の望みはなんだ。
 
 
コツコツと自分の思い込みを上書きしていく。
意味づけを変えていく。
 
 
腹落ちしないといけない。なんのためにするのか。とにかく、疑うことなく自分がそう思うこと。そんな状態にならなければ意味がない。
  

マイナス思考になるのは、自分を守りたい気持ちがかくれている。

傷つきたくない。裏切られたくない。悲しみたくない。苦しいのは嫌だ。
 
そんな感情がかくれている。だから、マイナス思考になって危険予測をいっぱいしている。 
 
 

不足から何かを望むという事は、不足の状態を引き寄せる事になる。
 
望んでいる間は、潜在意識には「不足な気持ち」がずっとすりこまれることになるからだ。
 


変な設定を無意識にすりこんでいないのか。
本当に気をつけなきゃだ。
 
 

無意識の設定が「感謝」なら、流れてくる川、未来からの出来事への反応はかわってくる。
 
川のなかにいる私はきっと「感謝」なことに手をのばすだろう。しかもそれは意識せずとも体が勝手にうごくはずだ。
体が反応したあとに、意識が遅れてこう思うんだ。
「わたしがつかみたくてつかんだんだ」と。 
 
 
 
まずは自分の思い込みに気づくことだ。
 
気づかないと設定は変えられない。
 
 


 
時間は未来から流れてくる。
そう思えたら過去の出来事に囚われている自分を解放することができる。

スポンサーリンク

他者のおかげで己を知る

私は基本的に家にいるのが好きだ。
ずっと家にいても全然苦にならない。
インドア派っていうのかな?
 
外に出るのが嫌いなわけではない。
家にいる方が断然好きなだけなのだ。
 
内省タイプだから、自分との対話の時間が少なくなるとものすごくストレスを感じる。
だから静寂な時間は何よりも癒される。
 
 
でも、そんな私でも時々、外にでて、人がいるところにまぎれたくなる。
特に好きなのは、本屋さんと併設しているカフェとか。
 
そこで色んなひとがいるのをみているのが好きだ。(これって変ですか?w)
昔から人間観察をするのが好きなんだろうな。ついつい無意識に観察してしまう。
 
電車とかのっても、携帯をみずに人を観察してしまう。(もちろんジロジロみるわけではない、。相手に失礼のないようにさりげなく…)
 
 
そしてこの前。ふと思った。
 
「そうか。私は他者を観察することで自分を観察しているんだな」と。
 
 
私が特に見てしまう人。反応してしまう人。
 
そういう人は、その人だからみてしまうのではなく、私の中に「何か」があるからその人の事が気になってしまうのだ。
 
 
つまり、さっきの話でいうと、無意識が反応している。
 
 
他者を通じて自分を深く知ることができる。
 
 
何かしらの反応は、必ず、自分の中に「何か」がある証拠。
 
 
それは思い込みかもしれないし、価値観かもしれない。何かが必ずあるから反応する。
 
 
逆に自分の中になにもなければ「反応」はないはずだ。 
 

わかりやすく言うと、自分がめっちゃ痩せているとして、そんななか、誰かに「デブ!」と冗談でもからかわれたとしても多分そこまで傷つかない。心は反応しない。
だって、自分ではそう思っていないから。
 
 
自分のなかに「ない」と、反応自体がないのだ。
 

 
だから、他者の存在はありがたい。
自分を知るきっかけになる。
自分でも気づけなかった部分に気づけたりする。
 

 
ずっと家にいても苦にならない私が、たまに人のいる場所に行きたくなるのは、自分を見つめ直したいという気持ちもあるのかもしれないなと思った。

 
もちろん、純粋にカフェを楽しみたい気持ちの時もあるけどね。
 
 
好きな人も苦手な人も、嫌いな人も、、、、
みんなのおかげで自分を知ることができる。
 
自分ひとりでは何も気づけない。
 
 
そう思うと、ありがたいなって、そう思えてきますね。
 
 
どんなに嫌いなひとでも、それはもしかしたら、学びのために無意識が引き寄せたのかもしれないな。
 
 
そんな、気づきのお話でした!
 
 
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください~
ではまた~!

すべての「行動」には本人にとってなにかしらのメリットがあるという話
「すべての行動には本人にとってなにかしらのメリットがある」これはアドラー心理学で学んだことだ。(目的論)どんな行動でもそう。例えそれがネガティブな行動だとしても。子供が朝腹痛を訴えてきて、学校を休んだとしても、腹痛が原因ではなく「学校を休みたい」という目的が「腹痛」を起こしたという考えかた。まだほかにも考えられる。
五感をとおした刺激に対してどう「反応」しているのかというだけ
今日は当たり前の事を言いますyo。いつもしている事を改めて言葉にしてみますyo。でも完全に私の偏った思い込みですyo。それでもお付き合いいただけると幸いですyo。はい。先日ふと思った。 「そうか、私たちは刺激に対してただ反応しているだけなんだな」と。 私たちは電気信号で動いている。感情も電気信号だ。電気信号で動いているって人間も機械見たいやな。
瞑想と頭真っ白と体の傾き加減、不思議な体験は変性意識なのか?!
先日、瞑想中に不思議なことが起こった。作家のさとうみつろうさんが純正律のピアノを使って祈りの瞑想をyoutubeで無料公開するとのことだったので「それならば」と参加したのだ。私に起こったことは三つ。①頭の中(目を瞑ってる視界の中?)が真っ白の光に包まれる②ふわふわした感覚③ちょっと体が引っ張られるというか、左に傾きたい感覚(結構強めの感覚)瞑想に入る前にしたことといえば、姿勢を正すことくらいだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました