人のせい、環境のせい、自分以外のせいにしなくなったら幸せになる?!

アドラー心理学
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めっきり秋めいてます。

空がもう秋。秋の空。

空、見てますか?

 

毎日空を見てると、少しづつの変化を感じて面白い。

 

読書の秋、勉強の秋、食欲の秋。

いろんな秋があるけど、私は最近「勉強の秋」に浸っている。

 

 

アドラー心理学をもう一度勉強したいなと思って学んでいるんだけど、やっぱりアドラー心理学は私は好きだ。

「未来、行動」に重きを置いている心理学。

心理学なんだけど、めっちゃ自己啓発な感じもする。前向きになれるんだよなー。

アドラーさん、すごいっす。

 

 

子育てにめっちゃ悩んでいた時に「アドラー心理学」を知って、その時にも沢山の本を読んで、アドラー心理学の考え方を発信している人の動画とかも見た。

そのときもかなり学びは沢山あったし、救われたこともあった。

それと同時に「受け入れられない」と思うような考えもあった。

 

でも、今は、それらも素直に「受け入れられる」自分がいることに気づいた。再び学んでよかった。それに気づけたことが一番良かったかもしれない。

 

 

アドラー心理学では、幸せになるためには「共同体感覚をもつこと」と言っている。

「共同体感覚」とは、自分が所属している共同体に対して、所属感、安心感、信頼感、貢献感、を持っているという事だ。

 

共同体感覚を持とうと思ったら「勇気」がいる。

その「勇気」とは、困難を克服するための活力の事だ。  

 

その勇気を持とうと思ったら、「自己受容」が大事なんだよなーとつくづくそう思う。

 

どんな自分も受け入れる、認める。ダメだと思っている自分も。全部。

そこができるから、自分も相手も認めることができる。

 

 

自己受容ができていないと、物事を歪んでみてしまう。

正しく、客観的に見る事が難しくなる。

 

気をつけないといけないのは、「自己受容」と「うぬぼれ」は違うという事だ。

 

自己受容は自分の長所も短所も認めて受け入れているが、うぬぼれは短所は認める事ができていない。つまり、自分の弱点を認める勇気がないということだ。

 

これでは、健全な人間関係を築くことができない。

 

だから、私が思うに、アドラー心理学を実践する前に、やっぱり「自分ととことん向き合うこと」が大事なんだと再認識したのだ。

 

前に、アドラー心理学を学んでいる人と話したことがあって、その時に自分の悩みとかいろいろ聞いてもらったんだけど、その時のアドバイスみたいなものがどうしても受け入れられない部分があった。

その人は「アドラー心理学は過去は関係ない」と言い切っていたから。

 

確かに。

アドラー心理学では過去はあまり重要視していない。

「原因論」ではなく「目的論」を大事にしているからだ。

 

だから、過去の原因が今の自分に影響を与えているとは考えない。今の自分はあくまで自分が選んでいると考えるのだ。

 

過去のせいにしない。過去のせいにできない。誰かのせいにもできない。

自分以外のせいにしていると、前に進めないから。

 

でも、それは、自分が整っている人には程よくおしりを叩かれて前に進める考え方だと思うけど、心がズタボロになっている人には厳しい考え方だ。

心が弱っている人に「その状態も自分が決めてるんでしょ!」って言えない。

 

だから、アドラー心理学は自分が整ってから取り入れるのに適しているのでは、と思う。今の時点では私はそう思う。

 

 

人間は完璧じゃない。

人のせいにしたいときもある。過去のせいにしたいときもある。

行動しなきゃいけないのはわかっている。人のせいにしてたら何も変わらないことはわかっている。

だけど。

何も変わらないかもしれないけど、心が「回復」している可能性もある。

 

 

そうやって「時間」をかけているうちに、回復してて、やっと「人のせいにしていてもあかんな」って素直に思える時がきたりする。

 

理屈ではわかっていても、心が納得していないときってある。その時は、もう、自分が「そうしたくない」のだ。だから焦らなくていい。

そうしていたら、ずっとそのままかもしれんやん。前に進めへんやんって思う気持ちもわかる。確かにそうだ。

 

例えば、ひきこもりの人がいたとして。

アドラー心理学では、学校でいじめられたから引きこもりになったとは考えない。

ひきこもりになりたくて、自分がそう選んでいる、と考える。

自分が傷つきたくないから。もしかしたら、自分のなかにもできること(課題)があるかもしれないのに、そこは見たくないから、頑張りたくないから、あえて、引きこもりを選んでいると考える。

 

そういう見方もできる。確かに。

でも、引きこもっている人も葛藤してるはずだ。抜け出したいと少なからず思っているはず。

自分と向き合ったり、もしくは何も考えずにその心の状態をキープしていたり、そういった時間が必要な時もある。

なんというか、無駄な時間は絶対にないし、だからこそ、「行動こそが全て」というのをすべてのパターンにあてはめるのは違うんだろうなって思う。

 

 

やっぱり、なんでも、これが絶対!というのはない。複合的なことが絡んでいるからこそ、その時の状況によって、適切なことも変ってくる。

 

アドラー心理学は素晴らしい学問だけど、それをすべてに当てはめることが正解ではない気がする。

 

だから、原因論で、「こうなったのは○○のせいだ」と思うこともアリなんだと思う。

そういう時があってもいいんだっておもう。 

 

 

でも、どんな時でも、「…とはいえど、自分はどうなりたい?」という問いは必要かな。

ゴールがわかっていないと、迷ってしまうから。

ゴールがわかってて迷うのはオッケーだ。

その迷う時間さえも学びになったりする。

 

 

ゴールに「幸せな状態の自分」が基本設定にあれば、すべてがそこに繋がってくる。

一休みしていても、大丈夫。ゴールさえ見失わなければ。

 

潜在意識に設定がセットされてたら、必ず、いいタイミングで自分をそこに向かわせてくれる。

  

 

話は戻るけど、昔の私は「自分のあかんとこ」が認めきれてなかった。自分でそれを許せてなかった。

そこを認めると、自分が崩れてしまいそうで怖かったから。立ち直れなくなると思ってた。そんなことないのにね。それも自分の思い込みなのにね。それがわからなかった。

 

でも、そんなことないんだって思えてからは、自分の欠点を受け入れることができるようになった。

 

すると、頭で「そう考えなきゃ 」と思わなくても、自然に「そう思える」ようになった。

ダメな自分もオッケーって思えたら、楽になった。

そして、「全部自分次第」という言葉をすんなり受け入れて、その言葉に希望までも持てるようになった。

 

 

だから、アドラー心理学でいう、目的論を自分に当てはめても、自分で「そうだよなー」って思える。時に苦笑いしながら受け入れる事ができる。

 

人のせいじゃなくて、自分のせいかーって思うと、清々しい。気分がいい。

自分のせいって思っても、自己否定にはならない。「そっか、じゃあどうするかな」って思えるからだ。

 

昔だったら、「自分のせいだ!」って思ったら、そのまま自己否定の渦に飲まれてたけどね(笑)

でも、それも、「自分のせいだ!」と思う事で、自己否定して落ち込んでる間(時間)は、結局、現実を変えなくてすむから、行動しなくていいから、逃げていることになるんだけどね。

そしてその考え方も、自己受容ができてない時は、自分の小さなプライドが邪魔をして、受け入れる事が出来なかった。「逃げてなんかいない!私はこんなにへこんでるのにひどい!」って思ってた。

 

でも、あかん自分も愛せたら、なんか、肩の力が抜けたんだよなー。

 

 

そこまで行くのには、私の場合、友達に沢山話しを聞いてもらった事も大きかったし、本を沢山読んで、勉強して、自分の視野が広がったことも大きかった。

そして、自分と沢山向き合ったことが一番大きかった。

これにはとにかく時間がかかる。向き合うのって、たった一日向き合えばいいってものじゃない。

 

自分の心がざわつくたびに自分と向き合う必要があるから、とにかく時間がかかる。

 

だけど、時間をかけたものほど、その効果は長く続くものだ。一過性の物ではない。

だって、自分の考え方が「変わる」ってそういう事だ。 

 

気になることが気にならなくなったり、

許せなかったものが許せるようになったり、

問題だと思ってたものが問題だと思わなくなったりする。

 

 

世界は怖いと思ってたものが、世界は素晴らしいになり、

「ない」ものばかりだと思ってたものが「ある」ものが沢山ある!になり、

過去のトラウマが、自分にとっての大切な宝物になり、

自分が嫌いから、自分が大好きになり、

幸せになりたい、から、もう幸せだった!になる。

 

 

考え方、捉えかたが変わるってそういう事だ。

 

だからこそ、「学ぶこと」と「自分と向き合うこと」はすごく大切なんだなと、アドラー心理学を再び学ぶことで再認識したから、このブログをかいた次第でありマス。

まだまだ書きたいことはあるけど、長くなるから今日はここまでにしておきます。(アドラー心理学、奥が深い~)

 

 

私も「勇気づけ」ができる人になりたいな。

私にかかわる人が、自分に自信をもって、自分の事が大好きで、みんな笑顔になってほしい。

 

想像したら…、

もう最高ですやん。 

 

 

ふふふ。

 

そうなることをイメージして、やっていきまっす!

今後、もう少しアドラー心理学に絡めて書くことが続くかもしれないし、続かないかもしれない。(どっちやねん)

 

でも、また書いた時、興味のある方はよかったらお付き合いしてください~(よろしくお願いします)

 

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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