多数派の「正しい」の罠、少数派の「可能性」、内向的と低刺激

アドラー心理学
スポンサーリンク
※本サイトのコンテンツには広告が含まれている場合があります
※本サイトのコンテンツには広告が含まれている場合があります

この前、飲み会に誘ってもらえた。ありがたい事だ。

ただ、何を隠そう(いや、かくしてない)私は大人数が苦手だ。

 

なんでだろうなーーー。そう思って考えると、人が多いと情報が増えすぎて疲れるのと、なんとなく人の考えていることがわかるので(それが合っているかは別として)、勝手に気を遣って疲れるからかなと思う。

みんな飽きてきてるな、とか、今の相づちってとりあえず合わせてるんだろうな、とか、この話にはあまり興味がないんだろうな、とか。そんな事がなんとなくわかってしまって一人で焦っている。(めんどくさいやつだね)

 

人が多ければ多いほど、考える事が増えるからすんごく疲れるんだ。(みんなが楽しそうだと安心するけど)

 

最近そんな二人以上で集まって飲むという事をしていなかったから、そんな自分の「感じ」を忘れてた。

そうそう、私ってこうだったなーって、その場にいながら自分の事を再認識してた。

そして、楽しくなかったわけではないんだけど、すごく疲れて帰ってきた(笑)

 

私が苦手なものがもう一つある。それは誰かのうわさ話だ。しかも、地域に住んでる人の話となると、絶対にどこかでつながってしまうから、余計にややこしい。だから最初からそう言った話をしたくないという事もある。そして、昔から本当にそういった類の話に興味がないのだ。

 

でも、人に合わせる事はできる。相手に「興味ないんだな」って思われないくらい自然に、相手と同じ熱量で話を聞くことができる。

興味がないことでも、相手が不快にならないように話を聞き、相づちをうつ。気を遣う。だから、疲れる(笑)

 

 

でも、苦手なんだけど、嫌いなわけではない。たまにはそういった物に参加したくなる気持ちは確かにある。そういったものを「刺激」で考えるとわかりやすい。そういった「刺激」は私にとっては「たまに」で十分満足できるのだ。

 

私みたいなひと、ほかにもいるはず。(わかってもらえますか?w)

 

わかんないけど、私が興味のあることって、たぶん、全体でみると少数なんだろうなと思う。本質的なこととか、真理みたいな事を話したい。わからない事を考える事が面白い。「生まれた意味ってなんだ?」とかそんな話。いろんな人の「思想」を聞きたい。その人の深い部分をしりたいんだ。

 

うわさ話では「その人」の事はわからない。表面的な話をしたいんじゃない。

その人のパーソナルな部分、その人らしさ。

そういった事を知りたいし、知れたらワクワクする。

大人数だと話題がどうしても表面的になってしまう。みんなが好きそうな話題。当たり障りのない話題。そう、だから大人数が苦手なんだ。それも理由の一つに入れなきゃだ。

 

人数が多いと、みんなに気を遣って、一人ひとりの深い部分に潜ることができない。せっかく出会えて時間を共に過ごしてるのに、それができないのがもどかしい。

 

「あなたはどんな人?何にワクワクする?どんな事をしてる時、幸せを感じる?」

そんな話を聞きたい。

「あなたにはそんな考えがあるんだね。素敵だ!」と感動したい。 

 

まぁでも、みんながみんな、そうではないもんね。一人ひとりと深い関係を築きたい人もいれば、表面的にあっさりとでいいっていう人もいるもんね。愚痴を言いあってストレス発散するだけで満足なんだって人もいる。

 

ただ、私はできるだけ一人ひとりと深く付き合いたいなと思うなーーー。出会えるだけでも奇跡やのに、一緒に時間を過ごすことができるってのも素晴らしい事だしね。

 

 

そんな事を改めて考えた飲み会でした。(いろんな気づきを与えてもらい感謝だ)

 

そして、私は再確認した。

うん、やっぱり私は大人数が苦手だ、と。前回のブログ?でも書いたけど、ザ・内向的人間ですから。低刺激でも十分お腹がいっぱいになるわけです。 

 

 

飲み会でみんなが「できるだけ勉強とかしたくないー!」って盛り上がってて、私も一緒に笑っていたけど、内心は「え?できる事ならずっと(興味のあること)勉強してたい!」って思ってた。

そんな事いったら、変な奴とか、変にマウントとってきたとかおもわれるかもしれないから、絶対に言えないよなーとか、そんなことも考えてたけどw(マウントとりたいわけじゃなく純粋に好きなんだけどね)

 

でも、そのグループの中で少数派になってしまうと、一気に変なやつ認定されてしまう。

うーーん、難しいね。

 

自分にブレーキをかけずに思い切り興味のあることを話す飲み会とか最高やな。

それはやっぱり、似たような価値観で集まらないとだめですね。

 

でも、人見知りで内向的ですからwそういった場に出ていかないので、結局こうしてブログをかいてますw

 

帰ってきた私が疲れている様子を見て、夫が一言。

「あなた、そんなに合わせてたら、自分がしんどいだけやで。自分を出さずにその場にいたら、それが好きなんやと思われてもっと誘われるで」

 

うんうん、正論ですな。わかりますよ、言いたいことは。

 

でも、難しいよね。人間関係ってそんなスパンって切り離せるわけではないし。グレーがあるんだよな~

どっちかに偏ると、結局トラブルになったりするしね。

思想が全く違っても、それはそれでOKだよね~!っていう関係性になるにはもう少しお互いを深く知らないといけない。そこまでの関係性ができていなくて、完全に自分の思想で振り切ってしまって主張するのは危険だ。(例えばって感じで「思想」というキーワードをだしてます) 

  

だから、「いい塩梅」「白でもなく黒でもなくグレー」みたいなところでいる事も時として必要なのです。

 

 

飲み会メンバーの一人が言っていた。「仕事先で自分だけの知り合いができてうれしい」って。どういうことかと言うと、「○○君のお母さん」とかそういう仮面を取っ払って、たった一人の人間、「私」という存在で作り上げた人間関係が新鮮で楽しいという事だ。

めっちゃわかるな~と思った。

 

それこそ余計な情報はなく「自分」そのままで関係性を築ける。子供のこととか気にせず、自分そのままを見てもらえるって嬉しいよね。

 

ママ友つながりだと、必ず子供が絡んでくる。自分ひとりの問題というわけにはいかない。それがとても息苦しい。 

 

振り切った自分をだして、子供に迷惑がかかってもあかんもんなーと考えたりする。

 

本来ならば、別々なのにね。ほんま。

 

 

そうそう。話の中でうわさ話になって「親がこうだから子もこうなった」的な話が出ていた。

これを聞いた時、私はもともと少数派の人間(変わっている)という事を自負しているので、なんとなく胸が苦しくなった。 

うわさの対象になった人はそのメンバーのなかで性格的なものが少数派だったから浮いてしまった。そのメンバー、みんなと違うから変わっていると思われている。こういう時、多数派が「正しい」みたいになるのってなんでなんだろう。ただ「多いだけ」なのにね。なんで「それが普通」ってなるんだろう。

 

「それが普通」

「こうあるべき」

ができてしまう。それができた時点で「そうじゃない人」が生まれてしまう。

 

どっちもただ「あるだけ」なのに。

 

でも、多数の意見ってやっぱり安心感があるのもわかる。人間は、特に日本人は、集団で生活する民族だ。そういったDNAがあるんだもんね。だから「多い方が安心、生存確率が上がる」みたいに無意識にそうなってしまうこともあるのかもしれない。

それをわかっておくことって大事やな。(自分も気を付けよう)

  

 

あ、一応言っておきますが、うわさ話をしている人を私は否定したいわけじゃない。そう思う人もいるんだなー、というだけ。ただ、自分はそう思わないと思うだけ。ただそれだけです。

 

で、

なんとなーくモヤモヤが残ってて、夫に何気なくその話をした。

それを聞いて夫はすぐに答えた。

「あのさー、それってさ、少数やからあかん風に言われてるけどさ、でも、その子の方が他のみんなより上手?(うわて)ってこともあるで?ただ、まだ幼い分感情コントロールとかが追い付いてないだけで、ほんまは全部わかっててそうなってる、みたいな」

 

なるほど!!!!

さすが夫だ!!!

 

夫はこういう時、必ず、真反対のところからの意見とかアドバイスをくれたりする。視座が高いのだ。すごいなーと思う。

 

そう。そうなんだよ。

みんながそう思っているから、それが正しいわけじゃない。少数派の人間がおかしいわけじゃない。というか、優れているとか劣っているとかないんだよぅ。ほんまに。

 

小さいころなんか特に、コミュニティが限られている。

本当は川魚なのに、無理やり海で泳がされているみたいな。そんなことだってあり得る。自分で泳ぐ場所を選べない。その場所しかないと思って、周りと違う自分を否定し、落ち込む。めちゃくちゃもったいないことだ。

 

泳ぐ場所さえ的確であれば、悩みが悩みじゃなくなる。むしろ、魅力や強みに変わることもある。どこで「泳ぐのか」なんだ。

 

そんな可能性のかけらを見つけるような夫の一言は素敵やな。

 

そんな「見方」ができる人でいたい。

 

 

そこからまた話が逸れて、夫と話をした。

 

(自分への戒めを込めていってます)

「他人を否定する人って、他人を下げる事で自分を上げてるみたいなところがあるよね。そこでやっと自分を認められるみたいな。自分より下がいると思う事で、自分の価値を確認してるみたいな」

 

アドラー心理学でもそんな事が書いてあったな。

 

でも、本来ならば、人と自分を比べる必要はない。他人を下げなくても、みんな、価値ある人間なんだ。ただ、なんでも順位が付けられてしまう世の中なんだからそういう風に思考回路が働いてしまうのもある。

 

 

でも、自分が他人を否定した時。(もしくはそういう気持ちになった時)

そんな心理が働いていないかを自分自身に聞いてみる事は大事なんじゃないかな、と思う。だから私も本当にそうしようと改めて思った。うん。気を付けよう。

 

 

完璧な人間はいない。

白もあるし黒もある。グレーだってある。濃淡であり、グラデーションでもある。それでいいんだ。 

 

 

 

大人数は苦手だけど、でも、他人は自分にいろんな気づきを与えてくれる大切な存在だ。感謝だな。

 

そんなこんなで、今日も最後までお読みいただき本当にありがとうござました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

「かもしれない」と仮説を立てることは「相手への思いやり」
「ずっと動いてるよね(笑)」 体操の先生が次男に言っていた。嫌味ではなくむしろ、突き抜けすぎて注意するより逆にすごいなって感じのニュアンスだ。そんなことがあった次の日。部屋には長男と次男と私の3人。台所で静かに用事をしていた私。リビングの2人が騒がしい。「ずっと喋ってるな(長男が)」こう思った時に私は気づいた。「そうか、我が家にはずっとしゃべってるやつとずっと動いてるやつがいるのか!」
相手の反応は関係ない?まずは自分が「どう在りたいのか?」だ!
「いつも行く取引先の警備のおじさんがものすごく愛想が悪くてさ!」友人は気分を害していた。「挨拶しても無視やで?腹立つ!」うんうん。その気持ちとてもわかる。腹立つよね。うん。「気持ちわかるわ~。そりゃ嫌やんな」共感したのち、今日はちょっと角度を変えて話してみようという事になった。
自分の中にいる「小さな私」が怒っている。ただ存在を認め寄り添うこと
私が怒っている。正確にいうと、「小さな私」が怒っている。小さな私。そう。それは小さいころの私だ。私のなかにいる「小さな私」なぜ。怒っている?何があった?表面的には平気な顔をしていても、心の奥が、胸がチクチクする感じ。苦しい感じ。うっすらとそんな感じがする。うっすらだから気のせいと思うかもしれない。そのうち忘れる感覚かもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました