自分の心が動いたときは全部がチャンスだ。さぁ自分に潜ろう。

快適な暮らし
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自分の心が反応するとき。感情が動くとき。

それは自分のなかに「何か」があるから。「何か」が心や感情を使って「反応」している。

 

だからなんか心が反応したときは自分のなかに潜ることにしている。

今日はそんな気づきのお話だ。(最近こんな話ばっかりですいません~)

 

私の偏った考えだけど、なにかのヒントになれたらいいなと祈って書こうと思いマス。

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ある日、知り合いと話をしていた。その会話のなかにあった言葉にどうやら私のなかにある「何か」が反応したらしい。

 

「こういうことする人ってメンヘラだよね~」という一言。

 

知人の知人がネット上でした「発言」をみて、あなたはどう思う~?ってかんじでいった一言。

 

何気ない一言。別に悪気はないと思う。

いや、あるのかな。どうなんだろう。言葉だけではどういう意味でいったのかがくわしくわからない。

 

もう少し会話を続けてみるとなんとなく伝わってきた。さっきの一言のニュアンスは「今までの経験上、その人(知人)の統計上、カテゴリに当てはめるとしたら、そのカテゴリ(メンヘラ)の可能性が高いよね」という意味合いが強そうだ。

 

たぶん本当に悪い意味はない。客観的にそうだよね~と言っているだけなんだと思う。(知人にとってのメンヘラという言葉の意味はそこまでネガティブ要素がないかもしれないし…今回知人がどういう意味でいったのかというより私の心の反応の理由を知ることが大事だ)

 

とにかく私の心は反応した。

そう。この前も書いた「他人で己を知る」である。

これだ。

  

 

私は何を見たんだろう。そこに何があったんだろう。考えた。

 

 

「私だってメンヘラ要素があるかもしれないと思ったからちょっと嫌な感じがした?」

「上辺だけで判断するのはかわいそう。」

「やっとの思いで「発信」できたのかもしれない。」

「それはその人にとってのしぼり出した勇気だったのかもしれない。」

 

 

そう、私がいつも我慢して本音をなかなか言えないから。私はその人のなかに「そんな自分をみた」のかもしれない。

「きづいて!」そんな心の叫びかもしれないのに「メンヘラやな」の一言でおわらへせないで!という気持ちが出たんだろう。

 

 

ってか、メンヘラってなんや。なんとなくでしか意味を分かっていない。だから調べてみた。

「メンヘラ」は、一般的に「メンタルヘルス」の略語で、心の状態が不安定な人を指す俗語として使われます。特に、感情の浮き沈みが激しく、周囲にネガティブな影響を与えてしまうような人を指すことが多いです。

Search Labs | AI 

  

周囲にネガティブな影響か…

与えてるかどうかなんて自分ではわからないなー。

めっちゃ落ち込むこととかあるけど。でも、みんな落ち込んだりするもんね。

周りに迷惑をかけてるか、かけてへんかが、判断基準なのか?

 

 

でも、ほんまに実際、自分が迷惑をかけられたりしないと、その人のことをメンヘラって言えないよね。自分が経験してないのに、勝手に判断するのは、カテゴリ分けするのは、自分はやめておこうと思った。(別に知人のことを非難しているわけではないです) 

だから、私の一番近くにいる夫に「あなたメンヘラです」といわれたらそう思うしかないのかな(自分が変な奴という自覚はあるw)

迷惑かけてるんだったら反省するしかない(笑)迷惑かけないように気をつけよう。

 

 

私は常々思ってるのですが…(ミステリと言う勿れ、整君、大好きです(笑))

「言葉」を作ると確かに便利だ。わかりやすいし、共通言語があるとすぐに理解し合う事ができる。

でも、言葉は便利だけど、万能じゃない。

 

カテゴリ分けをすることで、そこにあてはめられた「人や物」はそこに縛られることになってしまう。

本当はそうじゃないかもしれないのに。他の可能性を全部シャットダウンしてしまう。 

 

「メンヘラ」という言葉と合体してしまった人は、メンヘラという檻に閉じ込められる。

周りの何気ない一言がその人の自由を奪う事もある。なんとか自分でその檻から出れたとしても、カテゴリわけされて貼られてしまったシールがはがれない。自分でははがせても、周りのみんなのなかにはそのシールがはられたままの自分がずっといることになる。

 

だから、メンヘラみたいな、人を分類わけするような言葉は作らんといてほしいな。

 

言葉の力は思っている以上に強いから。

メンヘラじゃなくてなんか聞いただけでポジティブになれるような言葉やったらいいのに。

 

作っちゃうと、使ってしまう。

しかも安易に。使う人はそこまで深く考えないもんね。

こどもの目の前に触ってほしくないものを置かないのと一緒だ。あったら触ってしまう。使ってしまう。だから、そもそもなかったらいいのに、なんて思うわけです。

 

まぁこれも私の勝手な考えですけど…

 

いや、でも。

道具も使い方ですもんね。

どんな言葉があろうとも、使い方を間違えないように気をつけたらいいだけか。

 

これがダメ!ってなっちゃうと、それはただ単に、白か黒かの二極の世界になってしまう。グレーも大事だから、これもあるけど、こっちもあるけど、どっちもあるよね。真ん中もあるよね。という、曖昧な状態でいることが大切だ。

 

白黒はっきりさせることが全てではない。

 

って何の話や!また脱線してしまった!(ほんますいません)  

 

 

話を戻します。

 

 

人の心は複雑だ。

やっていることと、思っていることがちがう事はよくある。

 

裏腹なんだ。矛盾している。でも、そうでしか表現できな人もいる。

目に見える行動だけで判断するのは危険だ。

 

 

私のように素直に表現できない人だっているんだから。

 

だからこそ私は、関わる人たちの「サイン」を見逃したくない。

気づける人でいたいなとおもう。 

 

「いろんな人がいる」という当たり前の事をしっかりと認識しておくことが自分の許容範囲を広くするな。

 

 

まぁでも「サインかもしれない」「助けてあげたい」みたいな気持ちでいること自体がかなり偏っているんだけどね。バイヤス。そう認知の歪みだ。

「助けてあげたい」という気持ちのメガネ(心のメガネ)を)かけていると、そうでしか見えないんだから。

 

これもまた危険。本質が見えなくなるから。感情が絡むととても危険だ。

だからこそ丁寧に、物事を見ないといけないな。

 

 

とにかくニュートラルに「事実」を見る事が大切だ。

 

 

 

今回の話に答えはない。ただ、自分でもわかっていない「何か」を「見つける」ことに意味がある。

 

私が今回の事で気づき学んだこと。

 

言葉を使うとき、しかも、その言葉の意味がネガティブ要素を含むときは気を付けよう。

私は人がだす心のサインに敏感なことろがある。なんでも「サインかも」という視点で考えるのは危険かもしれないということを忘れない。

でも、人の事を安易に判断するのはやっぱり気を付けよう。

 

 

こんな感じかなー。

 

みんながみんな、言いたい事を言えない性格ではないもんね(笑)ほんまに。

「どっちもある」「いろいろある」という視点を常に忘れないようにしたいなー。

 

 

いろんな事に気づかせてくれた知人にも感謝だ。

まだまだ学び続けます。

 

今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~

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