「そんなことないわ」
自分以外の人間にこのような「否定系」の言葉をいわれたことはみんなあるはずだ。
言われたこともあるし、言った事もあると思う。
そんな「他人の一言」についておもうことのお話。
先日も占いの話をかいたけど、その時の延長話を少し。
私は過去に占いをしてもらった時に「守護神に守られている」と言ってもらえた。その中の一人が父方のおばあちゃんらしい。
私が幼少期の時に亡くなってしまったから私は父方のおばあちゃんの記憶がない。覚えていないのだ。だけど、嬉しかった。おじいちゃんおばあちゃん子の私は「おばあちゃんが見守ってくれている」という言葉がとにかくすごくうれしかった。
そこまでは良かった。
占いが終わって母が駅まで迎えに来てくれた。
帰りの車の中で私はすぐに、嬉しい気持ちいっぱいで母にその事を説明した。
すると母はすぐさまこういったのだ。
「そんなことはないわ、絶対」
言葉って「言い方」とか「声のトーン」とか「相手の表情」とかでその言葉の「意味合い」は変わってくる。
例えば、「ありがとう」という言葉自体の意味は、感謝という意味でつかわれることが多いけど、それも言葉を言う人が怒りの感情でいったのならその言葉の意味はガラリと変わる。
今回の「そんなことないわ」という言葉はどちらかというと、…いや、完全に「いい意味ではない」と私は母の非言語の部分から感じとった。
母にはきっと 母の事情があったのだろう。私はその時はもう大人だったので、ある程度「言葉の背景にある真意」を汲み取ることができる。
だから、そんな母の反応に対して違和感はあったものの反発はしなかった。
母 「おかあさんはっきり覚えてるねん。○○ちゃんがかわいい(私のいとこ)、やっぱり内孫が一番かわいいわって言われたから」と母は続けていった。
私の母の言葉から感じ取れた感情は、「寂しさ」や少しの「怒り」みたいな感情もある気がした。「そんな言葉を私に言わなくていいじゃないか」といった気持ちもあったんだろうな、と思った。
もちろん、おばあちゃんがそこまで深い意味でいったのかはわからない。そんな悪意を持ってわざと言ったわけではないと思う。私は。
だってその時の状況もあるだろうし。母の心の余裕とか。
それまでにあった出来事で母の心が疲れていて、マイナスに受け取ったりとか、そういったものも関係していたりするだろうし。
でも、その当時の母はきっと、そう言われて、とにかく悲しかったんだろう。自分が欲しかった言葉がもらえなかったんだろう。
母はおばあちゃんに言われた一言をずっと心のなかに大事に残していた。まぁこれは手放せずにいたといってもいいのかもしれない。
そして、私も同じだ。
私は嬉しかったのに母に「それは違う」と言われた。期待していた言葉はもらえなかった。「おばあちゃんが見守ってくれていてよかったね」という一言はなかった。
それが悲しかった。そして今でもその時の感情を覚えている。
つまり、大事に心のなかに残していたんだ。
おばあちゃんは私の事を愛してくれていた。大事に思ってくれていた。そう思えたのに、一瞬にしてその喜びの感情は私の心の奥に追いやられていった。

でも、本当に母にも悪気はない。
きっと、その当時の自分に向けてなのか、わからないけど、私にその言葉を言っているようで「自分に言い聞かせていた」のかもしれない。
まぁわからないけどね。
とにかく私が今でも覚えているという事はそれなりにその一言が「影響」を与えたということだ。
そして、つい先日、母とその時の話をすることがあった。
あんなに感情的にいっていたんだから覚えていると思っていた。
絶対に、覚えてると思っていた。
でも。
母は「そんなことあったっけ」って感じだったのだ!(笑)
「え?覚えてへんの?まじで?」
私は心の中で思いっきりツッコんでいた。
おばあちゃんに言われたことは覚えていたんだろうけど、私が占いの結果の話をしたこと、「それはないわ」といった事はすっかり忘れていた。
そう。
何がいいたいのかというと、今回の学びとしては、
「自分がとても大事に掴んでいたその言葉は、それくらいの価値だった」という事だ。
自分以外の人から言われる言葉で救われることもある。
そういう時は大事に掴んでおくことはいいと思う。
だけど、今回のような場合は、「そこまでその言葉に縛られる必要があるのか?」という視点を持つことがすごく重要だという事だ。
子供にとって親からの「言葉の力、影響力」は大きい。
そういった、自分にとって影響のある人からの一言は特にそういった視点を忘れてはいけない。
何度も言うけど、その言葉によって自分が勇気を持てたり、前向きになれたり、自分を奮い立たせてくれるのなら、大事に大事に掴んで離さなくていいと思う。
でも、その逆の場合は、要注意だ。
私のように、母が私にその一言をいっているようで、実は母は自分の心が納得するように「じぶんに向けて放っていた言葉」かもしれない。
相手が自分のために言ってくれていると思っていても、そうじゃない場合もある。
相手にいっているようで、自分に言っている場合は結構ある。
それは私も経験がある。
だからこそ、相手からの言葉を「鵜吞みにする」のは危険だ。
そこまでその言葉を大事にし、縛られる必要があるのかどうか。ちゃんと自分で考える必要がある。
ってか、本当に他人はそこまで「一言」に「責任」を持ってない。
軽い気持ちで言ったりすることもある。ふつうにある。私もそうだ。
実際に、全部の言葉を「責任をもって!」とか、意識してたらしんどいもんね(汗)
そう「言葉」自体に「重み」を与えるのは「自分自身」なのだ。

相手が自分にとって大きな存在だったら、相手の自分に向けた言葉の重みは「重く」なりがちだ。
でも「言葉」自体が重いわけではない。「言葉」は「言葉」でしかない。
ただ、昔言われた言葉で、疑いもせずそのまま自分の価値観の一部になってたりすることもある。
それが、「いい感じ」に自分に影響を与えていたのならいいけど、そうじゃない場合は一度、自分に潜ってみて、確かめた方がいい。
今回、こんな感じで固い文章で書いてるけど、ほんまに、「何やねん~、も~」って感じで自分的には笑えた出来事だった。
「そんなもんなんやな~」って改めて思えたことで、なんというか心が軽くなった。
私たちは「言葉」に縛られるのではない。
私たちは「情報」に縛られるのではない。
私たちを縛るのは「外」にあるものではない。
私たちを縛っているのは実は「自分自身」なのだ。
自分で意味のないものに価値をつけて、重く感じているだけだ。ただ、それだけなんだ。
シンプルなんだよな~。結局、自分次第だ。
わかっているのに、うまくできない時もある。
人間だものね。でも、だからこそ、立ち止まって自分に潜るしかない。お金もいらない。必要なのは静かに自分に潜る時間だけだ。
「当たり前」のことすぎて意識もしてなかったことに、「当たり前だけど、そうだよね」と深く納得できたら、そこに意識がむき、やはり「見え方」はずいぶん変わる。
このただの文章。ふつうの文章。このブログに「意味」「重み」をつけるのは自分だ。
何かを感じて、この文章に「意味づけ」してくれているあなたにいつも感謝です。
「ありがとうございます」
この言葉、文章だから想像しにくいと思うけど、実際の私はパソコンの前で正座して、一呼吸おいて、読んでくれている「あなた」を想像しながら、落ち着いた声で、表情は微笑んでる感じで、優しくあなたに語りかけてますよ。
ふふふ。
本当に、ありがとうございます。
今日も最後までお読みいただき本当にありがとうございました!この後も素敵な時間をお過ごしください。ではまた~





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