「自分らしさ」がなくてもいい。こだわりがなくてもいい。二元性の世界。

生きるための引き出し
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自分にとって、「これが好き!」ができた時点で、それと同時に発生するもの。

 

 

それは、

「これが嫌い」だ。

 

 

それが、「めっちゃ好き!」となればなるほど、

同時に、反対のものは、「めっちゃ嫌い!」ってなる。 

 

二元性の世界。

対極。

 

「好き」と「嫌い」

「光」と「闇」

「表」と「裏」

「生」と「死」

 

こんな感じで、絶対になにかが「存在」すると「反対の存在」が同時に生まれる。

 

これは絶対的なこの世のルールだ。

 

私はよくブログで、「偏り」とか、「極」といったりするけど、「真ん中」から少しでもどちらかにずれると、「二極」が生まれる。

 

この「偏り」を今回は無理やり、自分に当てはめて考えてみる。(しばしお付き合いください(笑))

 

 

「自分らしさ」

 

自分の主張が強くなればなるほど、それは、どちらかの「極」に偏っていくという事だから、真ん中からはずいぶん遠くなる。

個性が強い。我が強い。こだわりが強い。

それはつまり、どちらでもいい「真ん中」から、偏っていくという事になる。

でも、そうなればそうなるほど、わかりやすい。だから「らしさ」という表現になっていく。

 

それが悪いといっているわけでもなく、ただ、そうなっていくんだよな~と思うというお話。

 

でも、

どんどん極にいって、「自分らしさ」をそこで固定してしまうと、それは「執着」につながるんだよな~とも思った。  

 

「こうじゃないと自分らしくない!」とか、「自分はこうあるべきだ!」となると、

それはそんな「自分とはこういう人だ」という「執着」がそこにあることになる。(という見方もできるということね)

 

私は何が言いたいんだ!?w(ねー、本当にw)

 

そう。

まとめると、「自分で自分を苦しめたりしている可能性があるかもしれないよ」っていう考えをどこかで持っておいた方がいいよねと、自分に言いたいのだ。(うん。気をつけよう)

 

 

「こうじゃないといけない」という事は、「こうじゃないと自分じゃない!」が発生してしまう。

自分とは、「こういう人だから」と決めてしまった方が安心できるときもある。

決めてしまうという事は、もう、そのほかに考えなくてもよくなるから、楽だ。

でも、永遠なんてものはないから、変化は必ずあるものだから、固定してしまうと、それは逆に「なくなったらどうしよう」という不安を生む。

 

そして、同時に、自分の「他にあるかもしれない可能性」を失っていることにもつながるから要注意なんだよな~

 

「これがあれば大丈夫」の反対は、「これがないと不安」だ。

 

本来なら、極にいなくても、大丈夫なんだ。

その一番端っこ、極というのは、「幻」にすぎない。

 

 

まぁその「幻」をみんなで「楽しんでいる」といってしまえば、それはそうなんだけどね。

 

 

「自分なんてものはない」というか、「なくてもダイジョブなのだ~」(バカボンのパパかい)というくらいゆるくいれたらいいね。

 

「自分らしさ」に囚われない。執着しない。

変化ありきで何事も考える。

 

「上善如水」(こんな名前のお酒ありますよね。とってもおいしい)

水のように、柔軟に形を変えていく。軽やかに。しなやかに。

 

 

変化は素晴らしことだ。

 

 

変化するのは当たり前の事。

 

「あの人は変わってしまった」というのは、言った人の勝手な解釈だ。そりゃ、変化するもの。

 

 

前までは、「自分らしさ」とはなんだ!?って感じで、そこにこだわって、そういうことばっかり考えてた時期もあったけど、今はなんかそういう事はもう気にならなくなった。(これも変化なのだ。そしてまた戻ってくることもあるかもしれないし、それもまたよし) 

 

それはそれで、必要な通過点だったし、物事に無駄な事は一切ない。

 

「自分らしさ」というのは、自分でひねり出して考えるものでもないんやろうな~。

 

そもそも、「言葉」にしてしまうと、それこそ無理やり、その「言葉」の意味に自分を閉じ込めてしまうことになるから、ちょっと窮屈な気がする。(「言語化」の落とし穴だ)

「言葉」は便利なようで、すべてにおいて「万能」ではない。

 

「曖昧さ」「余白」

そんな部分があっていいんだ。

 

言い切ることも素敵だけどね。

 

私は昔から、喧嘩している人たちの話を聞いている時、「こっちの人の気持ちもわかるし、反対の人の気持ちもわかる」って思う事が多かった。

そんな自分に、よく、「私っていつも中途半端よな~」と思っていたけど、でも、本当に、どっちもの気持ちがなんとなくわかるのだ。

 

だから、話合いとかでも、本当に、どっちもわかるから、答えを出すことができない。(議長とか一番むいてないタイプです)

  

いろんな「その場合はこうだけど、でも、こんな場合もあるし」がでてくる。永遠にでてくる(笑)可能性を見逃したくない。

 

自分の中の理想は、どっちもの「極」を知ったうえで、「真ん中」にいることだ。

簡単に言うと、「どっちでもいいよね」ということ。ただの「真ん中」じゃないよ。全部が含まれた「真ん中」だよ。

「どっちもがありだよね」という気持ちで何事も受け入れたいな~。

 

その先に私が見ている世界は「平和」な世界だ。

はっきりとした答えや正解はない。その時その時で状況は変わる。でも言える事は、人間は特別な存在なんじゃなくて、人間も自然の一部。自然そのものだ。

  

この二元性の世界。必ず、反対の物が生まれてしまうというルール。

とにかく全体で「ちょうどよく」なっている。どんな状況になろうとも。

 

いい塩梅。

 

そのルールを念頭に考えると、めっちゃいい人が生まれた時点で、悪役みたいな存在が生まれることは必然なのだ。

そう思うと、今、世の中で「悪い」とされている人たちも、そんな「役回り」をしてくれているのかもな~と思う事もできる。(もちろん本人はそんな意図はないだろうけど)

 

だって、全体で「ちょうどいい」ってなってるんだもんね。

 

まぁそう思いたい自分もいるけど…(本当にいろいろと、ここ最近の世の中の出来事とか、自分のちっさい脳みそでは理解不可能な事が多すぎて、悲しくて悲しくて、そのようにおもいたい)

 

そして、私の中にだって、光の部分もあれば、闇の部分もある。みんなそうだ。全部が光っていうのはない。その逆だって同じ。全部が闇っていうのもない。

 

 

人間だけで考えると、みんなが一斉に正義のヒーローみたいに、いい人になっても、またその中で、悪役みたいな人は生まれる。

 

ほんまにみんなが「二元性」を抜け出せたら、心のそこから「どっちでもいいじゃーん!」ってなったら、次元上昇みたいなことは起こるのかな。

そんなことが本当に起こったら素敵だな。

次元上昇、周波数が高い世界。

そこの世界の意識だと、怒りとか妬みとか、恐怖とか悲しみとか、罪悪感とか、ないんだもんなー。数値でいうと、500以上からは、愛・喜び・平和・悟りの意識状態しかない。

 

 

まさに「アミの世界」だ。

 

比較とか競争とかなくて、みんながみんなそれぞれが素晴らしい!というのが当たり前の世界。

 

一番とか、誰よりも優れているとか、そんなことはどうでもよくて、「自分にとって最高か?」というシンプルな問いだけがある世界。唯一の基本法が「愛」なんだもの。

 

めっちゃいいな。

 

 

そんな事を考えながら、今私が生きているのは、二元性の世界。 

 

私も、まだまだ、執着とか、いろいろある。

でも、目標というか、思い描くことは自由だ。

 

思い描けたら、その現実は未来からちゃんとやってくる。

 

それまでは、二極を行ったり来たりするだろうけど、それもまた必要な経験なんだろう。

 

螺旋階段を上っていくように、ちょっと、戻ったりしつつ、少しづつ上にあがっていけばいい。

焦らなくても大丈夫だ。

 

どんな状況にあろうとも、「希望」をもって生きていたいな。

 

深呼吸して。

息を吸って。はいて。ゆっくりゆっくり。

 

大丈夫。

みんな一人ひとりが神様で宇宙だ。

みんなが素晴らしい。

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